グスタフ・ルネ・ホッケ 迷宮としての世界

もう去年末あたりのことになってしまいますが、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』が岩波文庫に入って再版されました。
90年代、陰りが見えていたとは言え、まだまだ出版界は元気で、華やかな書籍をたくさん出していました。売れるの売れないの色眼鏡をかけた今の尺度で思えば、無茶としか言いようのない本がちまたに溢れていて、そんな時代にユングだのバシュラールだのバルトルシャイティスに出逢っては白水社のヘルメス叢書なんかをむさぼり読んだりしていました。この頃に国書刊行会幻想文学全集だとか、思潮社平凡社、河出、青土社だとか工作舎だとか旧トレヴィルの美術書群なんかに出会わなければ、いまごろ錬金術文書の翻訳なんかしていないことでしょう。むろん、これらはもっと古い時代(70年代とか)に出版されたものの再版だったりもするのですが、良い本がしっかりと企画されて、高価ながらにふたたび綺麗な装丁をまとって世に流通していることが、まだ幸福だったわけです。

こういう時代でも多分、ホッケの『迷宮としての世界』は入手しづらかった本だったと思います。当時はまだネットで検索、みたいなことも出来ませんでしたから、古書屋の目録なんかで見かけると飛びついて買ったものでした。1974年の第八版ですが、再販はされなかったと思うんですよね、自分が気付かなかっただけかも知れません。ところがこの美術出版社の本がまたえらいひどいシロモノで、ところどころページがまっしろになって飛んでいるところがあったりするのです。長年気にしながら、やっと読むことができた本を手にしての、まっしろな見開きはかなり衝撃でした。しかも結構あるし…これで出版しちゃう70年代のダイナミズムみたいなものにヤラれました。さらに古書でしたから仕方ないのでしょうが、ずいぶん焼けて背表紙も剥がれており、かなりわるい状態の本でもありました。
すでにもっている本を新版でまた買うなんていうのはなんだか、とある商法に乗っておんなじCDを何枚も買う人々みたいですが、こういう本がそこらの書店でも平積みになっているのを見かけるとみょうに感慨深いものです。こうなると『文学におけるマニエリスム』も出るのかなっ!なんて考えたりします。しかし最近の出版物はあんまり部数をださないからいっとき市場を賑わしてすぐ消えてしまうんですよね、さすがに岩波だからといって油断は出来ません。ちくまなんかだともっとすぐ消えてしまうでしょう。

さて内容はろくなレヴューなんて出来そうもない迷宮ですが、基本的にはマニエリスム美術についての入門書です。しかしその特性からいって魔術や錬金術のアルスの感覚と切っても切り離せない世界ですから、その方面の専門書としてもひじょうに有益です。


ホッケ『迷宮としての世界』上巻
 緒言
 1最初の衝撃
 2優美と秘密
 3蛇状曲線的(セルペンティナータ)―痙攣的
 4〈イデア〉と魔術的自然
 5綺想異風派(コンチェッティスモ)
 6没落のヴィジョン
 7美と恐怖
 8不安と好奇
 9天使城(カステル・サン・タンジェロ)
 10時間の眼としての時計
 11人工の自然
 12奇妙な神話
 13迷宮としての世界
 14抽象的隠喩法
 15キュービスムの先達と後裔
 16イメージ機械
 17古今の構成主義
 18円と楕円

ホッケ『迷宮としての世界』下巻
 19ルドルフ二世時代のプラーハ
 20アルチンボルドアルチンボルド
 21擬人化された風景と二重の顔
 22夢の世界
 23装飾癖
 24狂気
 25汎性欲主義
 26倒錯と歪曲
 27一角獣、レダ、ナルシス
 28ヘルマフロディトゥス
 29マニエリスムと衒奇性(マニリールトハイト)
 30神の隠喩


翻訳は今は亡き種村季弘氏と、澁澤龍彦の最初のおくさん矢川澄子氏。現代岩波版には、今をときめく高山宏氏の解説がついているが、美術出版社版にある三島由紀夫(!)の推薦文が岩波版には無いのでご紹介。なんかこう、この時代のこの世界の人々の高いテンションが垣間見えます。

未聞の世界をひらく
 二〇世紀後半の美術は、いよいよ地獄の釜びらき、魔女の厨の大公開となるであらう。今までの貧血質の美術史はすべてご破算になるであらう。水爆とエロティシズムが人類の最も緊急の課題になり、あらゆる封印は解かれ、「赤き馬」「黒き馬」「青ざめたる馬」は躍り出るであらう。この時に当たってマニエリスムの再評価は、われわれがデカダンスの名で呼んできたものの怖るべき生命力を発見し、人類を震撼させるにいたるであらう。図版も目をたのしませ、訳文はきはめて的確、一読われわれは未聞の世界へ導き入れられる。

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綺想主義研究―バロックのエンブレム類典
マニエリスム芸術論
魔術の帝国―ルドルフ二世とその世界