神よりの賜物(ドナム・デイ)The 'Donum Dei'

プレティオシシマム・ドナム・デイ、すなわち『いとも貴き神よりの賜物』の翻訳進行中。15世紀あたりからヨーロッパ各地で翻訳されて、じつに60種ちかくの版があるらしい。ざっと読んだところでは、よくある錬金術の格言のおさらいではあるものの、後半で「黒の過程」についてかなりイメージを膨らませている印象があるようなので、ダークな風情にどっぷりという気分にぴったり、でも暑苦しいので夏向きではないかも。

序文
わたしはただ神より鼓吹され術の奥義に至った。神がこのしもべに真の道理を明言することを許されたのは裁定と識別のためであって、こうした力の賦与は決して人間にとって機会の多いものではなく、かといって神からの許しを意味するものでもない。勿論わたしが最後の審判のその日を恐れぬのであれば、わたしは斯道の一部なりとも決して開陳したり、たれ彼に公表することもなかろうが、わたしは敬虔なる人々にとって信仰の錨となるべく奉仕しようという意志を持つに至った。それが神が、わたしへと与えたものである。誠をかたる信ずべき書物を持たぬ者はみずからの内なる原理を悟ることなく、賢者の術よりいとも遠く隔たっている。しかし専ら、他のなにものでもなくおのれ自身の因果を識る者には術の原理に到る路は残されている。そしてたとえ材料を識る者であっても完全に術を会得するにはまだ多くのことが残されている。完全なる錬金薬の調合にあたっては、われらが石がふたつの素体の賦質から抽出されるということが不可欠であって、それゆえいみじくも斯く云わる。嗚呼、黒海にむすぶ水、諸元素を融解せしめる苦さ。嗚呼、いとも偉大なる造物主よ、自然の性をひめたる被造物は卑俗の性をこえて、光とともにきたり光につつまれて生まる、そは万物の母、そのもたらす雲の何と黒きことか。

緑獅子と色素の何たるかの章
まず、われらの緑獅子のうちには色素のなんたるかの核心があり、それはアドロプあるいはアゾケ、クロパム、デュネクなどと呼ばれる。汝、この過程を深く理解したいのであれば以下の隅々までをよく読むがよい、さすればわれわれの時代に為された奇跡をもまのあたりにするであろう。わたし自身が奇跡を目にせず触れもしなかったのなら以下のように詳らかに描出し得なかったはずであるが、かといって斯術に要する様相と事物のすべてを開陳したわけではない。それには人界で語られるに相応しからざることどもがいくらか含まれるからであるが、そうした内容は隅々まで挿画のなかに描かれてある。しかし作業の全てを明かし、究極へのよりどころとなるようなものは一つも無く、そういうことは神や、敬虔なる先達の助けなくして識ることはできないのである。これは彼方を望む遠き道程であるから、忍耐と期成が不可欠である。われらの術に関わる者には論外の愚物も少なくなく、卑俗の黄金から飲用金を作ることができると吹聴しては、これがあらゆる疾患を癒すなどと信じて疑わない。あるいは医者にすら、水で金貨を煮るなどしたものを健康に最適であると公言したりする者があるが、これはむしろ罪深く有害なものでとても飲めるしろものではない。可飲金というものは贖罪叶って澄みわたり、尊厳を遵守するものであり、斯くあってこそ健康に資するものなのである。卑俗の黄金も他の金属も治療には役立たず、前述したように人体には有害で飲んではいけない。しかし、調合物を買うためにそれらを医師らに支払うのであれば、わたしはそれが最良であることに同意しよう。あるいは、黄金を見せることは大きな慰めとなるから、金貨一杯の盥とか純金を病人に見せるのは効果的なことかもしれない。しかし賢者のまことの可飲金は完全なる万能薬である。そしてこの可飲金は眼には見えねども効験あらたかな偉大なる医薬であり、あらゆる余分過多を身体からも金属からも除去することができる。ゆえにあらゆる金属の不完全さを堕落や脆弱さから変成し、人間の肉体にも斯くはたらく。留意せよ、これが最もたしかなことであり、あらゆる賢者の目的である。これを卑俗の黄金と解す者は盲目のなかの盲目であり欺く者である。たとえ卑俗の黄金が他の物にこうした完全性を与えるとしても、それ自体は不完全なままに留まることになる。最初に読んだただ一冊の書物からのみこの科学を断ずるべきではない。汝来たれ。真実は誤りなしに現れず、術に於いては間違よりもなお心の悲嘆こそが変成の材になる、と賢者らも云う。それゆえ斯様に偉大なる実践にあたって、叡智を励起させ疑い萎れることのなきよう、わたしは自身の生涯を惜しまない。なにものからも眼をそらすことなく万物を凝視する神に祈る。あまねく世のすべてによりて輝ける誉れの至らむことを。かくあれかし。

その出自至純なる者の言う「来たれ、最愛なる者よ、われら交々に抱擁し合い、両の親にも似ぬあたらしき有様を生み出そうぞ」かしらも紅く戴冠され黒々たる瞳そして脚しろき王は奥義そのものである。未だ孕まぬ母の「みよ、妾の来たるを。妾こそは世にふたつとあらざる有様をば孕むに適ひし者なり」と。かくして汝、彼者がふたつの山に産まるという真実を知るのである。汝がいま手にしている書物は汝の知っているであろう様々な書物に通底するヘルメス・トリツメギストスの言説に従うものであるが、彼はその立脚する理論的基盤についてはその名を明かすことはない。彼の残した句はあますところなくすべてこの書物の中で踏襲されるので、確とそれに従うべきである。それよりも確かな先達は有り得ず、この術について語る如何なる書物もこれに違うところは無い。彼は他のいかなる者よりも平明に語ったので、神が慈悲を与え賜うなら、これを読む者は身をもって解すことであろう。其者にあらゆる栄誉と光栄を。かくあれかし。