間取りの手帖とか

他人から夢の話を聞かされるほど退屈なものはないし夢のことを語って納得できたためしもないので、こうしたことは自ら禁じているけれども、今どうもその禁を犯さないと話が進まないようだ。よく間取りの夢を見る。マドリというよりもある建物空間が自分にとって新鮮な驚きを与える、そういう夢。それはかつて住んだことのある家や今住んでいる家、通ったり行ったことがあったりするだけのビル、ということもあるが、実際の空間と夢のそれが違っているのは、意外なところに扉があったり、何年も暮らしてきたのにこんな部屋があるのかとか、伸縮自在の空間性で、後で考えるとつじつまの合わない構成をしていたりもする。
『間取りの手帖』に載っている「ヘンな間取り」はそんなのじゃないけども、読んでいると(眺めていると)なにかそれに近い夢の論理を刺激するものがある。いや、普通の間取り図でも見ているのは結構好きだったりするが、だからこそ、この実在するおかしな住居空間を、想像の中であれこれと弄り回す、頭の中でうろうろしてみる、そこでの生活を想像してみる……これがもうすっかりハマるのである。好きな人は飽きるまで何時間も眺めていられるだろうし、そういう人は飽きても後で何度も見直すことだろう。こんなふうなので、もう何年も前になるが、ガストン・バシュラール『空間の詩学』を読んだときはほんとうにブッ飛んだ。こんなことが書いてある。

このときから隠れ場所や避難所や部屋はみな調和した夢の価値を持つことになる。家が本当に「いき」られるのは、家の現実的な面ではなくなる。……火や水と同じく、また家によって、思い出と記憶以前との綜合を明らかに照らし出す夢想の閃きをおもいおこすことになろう。この遙かな領域では、記憶と想像力は分離できない。たがいにはたらきかけ、深化しあう価値の世界において、両者はともに思い出とイメージの共同体をつくりあげる。……新しい家にすんでいるときに、過去の棲家の思い出がうかんでくると、われわれは、太古のもののように不動の、静止した幼年時代の国へ旅することになる。われわれは固着、幸福の固着を体験する。保護された思い出を再体験することによって、われわれは力づけられる。なんらかの閉じたものはわれわれの思い出にイメージとしての価値をあたえながら、その思い出を保持するはずである。外部世界の思い出はけっして家の思い出とおなじ音色をもたないだろう。家の思い出をよびさまして、われわれはさまざまな夢の価値をつけ加える。われわれは絶対に生粋の歴史家ではない。われわれは常にやや詩人めいたところがあり、われわれの情緒はおそらく失われた詩の表現にほかならない。

上は岩村行雄訳の思潮社版からのものだが、どうも最近ちくま文庫に入った模様。こういう本が失われずにちゃんと版を重ねるのは良いことだと思う。
以下、住宅空間、間取りについて最近興味のある本、備忘録。

間取りの手帖remix
(どうやら上記リンクのリトルモア版と内容はほとんど変わらないようだ。)
現代住宅研究
子供をゆがませる「間取り」