サイトのリニューアル用ファイルを作成中・・・。

旧コンテンツ『メリケン』や『マシーネン』は、
削除しちゃうのもナンカもったいないので、ダイジェスト版に。

んで今日はどうにか本丸の『へるめちか』にメスをいれることができた。

レイアウト中に空いちゃったスペースを埋めようと、
ほとんど自動筆記で以下の文面を書いた。
錬金術それ自体についての文章は久しぶり。

錬金術というものをひとことで言い表わすのは容易なことではない。それは人類史そのものと同じくらい古くから存在し、表立っては現れないものの、歴史のそれぞれに、文化・科学・技術の営為のうらがわに、その地下水脈として連綿とつづいてきた西洋精神史の伝統である。

なにごとにも関係があるかもしれない反面で、錬金術それ自体はなにものでもないかもしれない・・・全てでありかつ無でもある、そういった範疇において語られている技芸の総合様式なのである。

さて「賢者の石」というと、卑金属を黄金に変えるものとばかり考えられているが、それを信じ求める術者がたどるべき過程には、どんな打算的な結果論をも超えるイメージの豊かな万華鏡がひろがっている。錬金術とは何だったのか、それは真なのか偽なのか。いや、愚かしくも結論をいそぐことなど、まったく必要ではに。それがただ、たしかに「あった」ことであり、なんらかの重要事と関係があったのは、確かなのだから。

これを科学の誤謬史としたり、科学・化学史のなかに位置づけて進む研究の方法とその結論は、比較的容易に実現されるであろう。けれども、そうした研究から我々が得られるかもしれないものは、天才的科学者などではない我々の人生にいったい何の関係があるというのか。

当サイト『書肆へるめちか』では、めくるめく錬金術に現れては消えゆくおどろくべき現実を、できるだけそのままにとらえるという目標をすてない。そう、「もはや錬金術錬金術の見地からのみ研究されねばならない」のである。錬金術の伝統のなかにもきわめて重要な、文学的・心理学的テーマがあるが、それもまた結果論にすぎない。西洋文化・芸術を理解するためにキリスト教ギリシアローマ神話などへのまなざしが必要だったのとおなじことなのである。