実在性・歴史性

小池寿子さん(氏、というべきだろうが『ひさこさんの屍体狩り』から、さん、という敬称がしっくりきてしまう)という美術史学者の『屍体狩り』が大好きで、白水社から単行本が出たときにはあわてて買ったものだった。かつて、基督教美術史だかゴシック建築史の講義を直に受けさせて頂いたこともあって、ステキにおもしろい話をなさる方だった。

しかし近年この方が、錬金術関係の書籍、ナイジェル・ウィルキンス『ニコラ・フラメル錬金術師伝説』の翻訳本をお出しになって、この中で「フラメル文書が偽書である」とすっぱ抜かれるや否や、鬼の首でも取ったように「うそっぱちだったんだ」などと合点して、錬金術文書の信憑性を論じる向きがでてくるようになった。慎重なテーマなのだから、もっとしっかりと問題点をみつめるべきなのに、かなしい限りではないか。こんなひとは、この研究が目的とするところも、すっかり誤読してしまっている。

※2000年08月 白水社 (ISBN:4-560-02823-0) 2,940円

そもそも、錬金術文書の歴史的な信憑性になど、いったいどんな重要性があるというのか。錬金術師や、いわゆる伝説的賢者が「存在したかどうか」などを明らかにしたところで、錬金術それ自体への理解が深まるようには思えない。

錬金術の世界では、すぐれた作品とその著者は記号化されて概念の構成要素か記憶術の対象になるかするので、『ヘルメス文書』や『ポイマンドレース』のころから、歴史的な来歴よりは、時代の求めた精神史に呼応して即座に記念碑のようにそびえ立っており、まるで道教の神々のように、神格も一個の人格も、その思想まで含めて、歴史として捉えられる次元には存在せず、まさに「永遠を生き」て永遠の議論の円環をつくりあげる。

あたしがここで躍起になって語っても判りにくいので、例として、ユング『結合の神秘』の「ボローニャの謎」をめぐる章の内容を紹介してみよう。

アエリア・ラエリア・クリスピス。男でもなく、女でもなく、半陰陽でもなく、少女でもなく、少年でもなく、老女でもなく、純潔でもなく、娼婦でもなく、恥じらいもなく、そのすべてである。/拉し去られたのは、飢えによるのでもなく、剣によるのでもなく、毒によるのでもなく、そのすべてによってである。ーー天でもなく、水でもなく、地でもなく、そのいずこにも安らう。/ルキウス・アガト・プリスキウス。夫でもなく、恋人でもなく、親戚でもなく、喪の悲しみに沈む者でもなく、喜びもせず、死者のための建造物でもなく、ピラミッドでもなく、墓でもなく、そのすべてである。/彼は知らずして知っている、誰のために据え置いたのかを。/これは内に屍体をもたない墓である。これは周りに墓をもたない屍体である。けれども、屍体と墓はおなじものである。

いやあ、なんとも実に魅力的な詩句じゃあないですか。アメニモマケズ、ですな。いかにも何か重要なことを隠しているってムードが満点。うむ、余計な蘊蓄垂れるより、ユング先生の語りが冴えているので、まんま引用すればこのはなしはそれでおしまい、って感じだ。

「この墓碑銘は全くのナンセンス、冗談半分のでっちあげである。がしかしそれは、中世の数世紀の精神のなかで繁殖し放題のネズミのように気まま勝手にかけずり回っていた投影の数々、考えられる限りでのあらゆる投影をおびき寄せるネズミ捕りの役割を、実に見事に果たしてみせたのである。それは、議論沸騰の大事件、正真正銘の心理学的スキャンダルのきっかけとなり、このスキャンダルはほとんど2世紀にわたって蜿蜒と尾をひき、無数の注釈を誘発し、ついに『ラテン碑文大全』中の傑作のひとつだということが判明して不名誉な終末を迎え、これを境に忘れ去られた。では、なぜ20世紀の今になってこんな珍奇な事件をむしかえそうとするのかといえば、それは、中世の人々が、実在しない、それゆえ全く知り得ない対象について何百もの論説を書こうという気になったのはどんな精神のあり方によるのかーーこの珍奇な出来事はその精神の在り方を如実に物語る最高の範例のひとつだからである。」

こんなこといわれちゃうと、なんだかもう、ドグラ・マグラの小松博士に騙されてるような気分になってくるが、それで某かの犯罪に加担することにはなるまい、やむにやまれず、そうせざるを得なかった精神的営為から産まれたものだけが、美しいと、あたしゃあ思うわけです。ヘイ、お退屈様。

ぢゃあなんですか、ああた、「織田信長は存在しなかった!」とか言われちゃうと、簡単にヘコんじゃいますか、どうですか。