術師は金を求めたか


人間の想像力は、今は無いもの、かつて存在しなかったもの、まったく経験していないものを思い浮かべることはできないんじゃないか、と思う。

どんなにグロテスクなモンスターだろうが異星人だろうが、その細部は現存する生物の部分的寄せ集めでできていて、けっきょくはコラージュの域を出ることがない。いかに珍奇な思想・着想だって、どっかで誰かの言ったこと、かつて誰かの感じたおもいが復活しているにすぎない。

錬金術師が「金」を求めたときも、術師には「金」の概念があったろうし、
「金」の存在も意味も知っていたろう。

あたりまえである。
ひとが、しらぬものをもとめて行動するのは、ほとんどありえぬくらいに、難しい。

そう考えたとき、錬金術師が想起していた「金」を、我々が、我々の価値で、定義してしまうまえに、ちょっと慎重になった方がいいような気がしてくる。錬金術師の求めた「金」はたしかに「キン」であり「カネ」であり、たしかに富みにつながる物質なのではあるが、「金」がもっている存在の意味は、はたしてそれだけだろうか。昔から、それだけ、なのだったろうか?

そもそも、富や権力なんて概念は社会的なもので、人間の世渡りにかんすることだから、「金」は、憧れの対象だったり、キタナいものだったりするんだろう。そういう要素をいっさい排して、たとえば、地球上に人間がひとりもいなくなっても、「金」という物質は存在し続けて、もはや、その、憧れられも、キタナがられも、しなくなった「金」という物質は、なんだろう。金は金のみで存在しており、それは何を意味するだろうか。

この世の物質はすべて、そういう次元に「投げ出されて」いる。
ちょっとせつなくなったひとには、人文学的錬金術の才能がある。
テーブルの上に「鼻眼鏡」が置いてあるだけで、ちょっと、泣ける。
素材工房さんより拝借。
こうなると怖いもんで、この世のしがらみから、一定の概念に縛られて、「金」を「カネ」としかとらえられない場合(鼻眼鏡=ウケ狙いにかけるもの、としか考えられないのなら)錬金術に従事するひとの姿は、見るに耐えないものとなる。あるいは、人間性不在の、書物まみれだけの錬金術も、単に化学のものだけであっても、カタテオチなんではなかろうか。

錬金術師は、ひたすら金を作ろうとしていた人じゃないか、って?
あたってもいるしはずれてもいる、という決まり文句は、こういうときのためにある。