ドナム・ディ 第8章

第八章 暗黒の中に生まれた龍が《水銀》で養われ自らを殺しまた溺れ、水が白味を帯びゆくさまについて。
金は溶解してその原初の物質へと還元されるが、それはまことに硫黄と《活ける水銀》に相違ない。だから物質をそうしたものに変換せしめれば、われわれは最良の金と銀を作り出すこともできよう。故に、まことの《硫黄》と《活ける水銀》になるまで物質は洗浄されねばならず、哲学者らの言説によれば、それらはあらゆる金属種の根源的な構成要素なのである。故に、妻と婚姻を結びこれに子を孕ませ、再びさる発生に苦渋を嘗め胎動し、光の中で清められて生まれ、その光彩を暗闇から分離する者は至上の尊厳となろう。故に、われらは戴冠せし王を赤き児と結合させ、穏やかな火によって互いを結びつける。かれらのなかには嫡子が生じきたり、その頭上の雲霞はその誕生にともなって再び彼の肉体のなかへと吸収される。故に、すべてが霊妙なる水に溶けるまで、ほどよき沐浴を続けよ。さすればすべての染色素は黒の色彩のなかから出で来る。それが溶解過程が完了した兆候である。



くらき家は哲学者の硫黄。
ここに始まるは自身の羽翼を喰らいての、龍の白き蝋への変転。

「ドラゴン」というよりは、なにやら獅子あるいはキメラのような生物がフラスコの中に生まれている。瓶の口からは相変わらず《カプト・コルウィ》が飛び出ているということは、かなり危ない物質がモウモウと発生していることだろう。中盤の「者」はまた術者じしんの投影=プロジョクションの気配がある言辞だけれども、いろいろな主客転倒がおこっていて、じつに謎めいたムードになっている。
「王と子」が「結合」というのは、なんだか違和感があって、「え? 王と王妃の結合、じゃないのか?」と訝しいが、これはたぶん段階が違うのでラムスプリンクの寓意図11番《父と手を取り合う息子の手はまた、導師の手とも結ばれている。識れ、三者は肉体と魂と霊である。》を想起するのが正しいのかもしれない。であれば、BalneoとかBathe(沐浴を続けよ)という文言が、未だ王の被るデュネク的状況にもつながる。つまりは「子」が戻らねば、父親は苦しんだままなのだろう。ユング心理学錬金術の相関を完膚無きまでに記述し倒したファブリキウス『錬金術の世界』のニグレドの章では、若さを失いつつあるいわゆる中年期の鬱状態が黒の過程に準えられているが、こうして失われた若き意気が、人間になんらかの形で蘇って昇華されてこそ、肉体的・精神的に下降線をたどる人生が光を見出して「超越」「成熟」してゆくことを示しているのかもしれない。・・・それはなんだ? ん〜。やたらメタボな中年たちが腕組みしてサウナに呻吟しては、最近の若え奴ぁ・・・なんてグチってる絵が浮かんでしまった。・・・サウナで我慢してりゃ、成熟した人格が形成されるってわけじゃないだろうに。

以下はまだ整合されていない『ラムスプリンクの書(賢者の石について)』から・・・。

《寓意図11》父と手を取り合う息子の手はまた、導師の手とも結ばれている。識れ、三者は肉体と魂と霊である。
ここにいるのはイスラエルの古き父祖なり/一粒種の息子あり/心いっぱいに愛されおる/悲嘆にくれつつ、名残惜しくも彼は息子に命ずる/父は子を導師に託すが/彼はその意図するの、いかなる処へも息子を導き去る/まず導師は息子に以下の言葉をかける/こちらに来い! 予はこれより汝を導いて/そびえ立つ山の頂きに連れ行こうぞ/そこで其方は全智を解するのだ/大地と大洋の偉大さを目前とするのだ/そこからは、真の歓喜が得られるであろう/風を切り裂いて、予は汝を連れ行こう/いと高き天界の門までも/息子は導師のことばに傾聴し/彼とともに上方へ昇った/そこで彼は聖なる神の御座を垣間見/それは、はかりがたき栄光に包まれていた/彼はこうした光景を見るやいなや/悲嘆にくれる父を思い出して/父のひどい悲しみを遺憾に思い/こう言った、私は父の胸に戻ります。

そういえば、錬金術文書の貴重な邦訳全書、白水社のヘルメス叢書ってのは今、どのくらい流通してるんかな。もう容易には買えない巻もあるんだろうか。もう10年いじょう前の出版になってしまったのね。時が経つのは早い、はやい。
フラメル『象形寓意図の書・賢者の術概要・望みの望み』(中古のみ)
モーリー『魔術と占星術』(在庫あり)
デスパニエ『自然哲学再興・ヘルメス哲学の秘法』(在庫あり)
マリニウス『占星術あるいは天の聖なる学』(在庫あり)
作者不明/リモジョン・サン=ディディエ『沈黙の書・ヘルメス学の勝利』(在庫あり)
ラムスプリンク/マルティノー『賢者の石について・生ける潮の水先案内人』(在庫あり)
アントニオ・クラッセラーム『闇よりおのずからほとばしる光』(在庫あり)
調べてみれば、ほぼ全巻流通してるようだ。やっぱり小池久子氏以降ニコラ・フラメルは人気があるのか、これだけはAmazonでも中古品だけしかない。その他はほぼみんな10年前とほぼ同じ値段で買えるのは有り難いこと。でもまあ文庫化とかはしないだろうなあ。出るとしたら平凡社ライブラリーか、あるいはちくま学芸文庫か・・・。


しっかりしたハード・カバーなのでさんざん参照して弄っててもこれだけ痛まない。
翻訳がランボー研究の有田忠郎氏なので、いわゆる科学史研究の立場からはちょっと厳しい評価が多いそうな。でも詩想ゆたかに錬金術文学を味わうにコレ以上の叢書はないだろうなあと思うわけで。関心の高いひとは手に入るうちに、というところ、でもまあまだ焦るほどではないけれど。