第5回 院長クレマーの告白

第4章 3の月15日ごろに、3オンスの水銀を用意しそれに半オンスの《生ける水》を加えよ。この水銀は、洗剤で浄められてよく乾かされた濾過器に5度通せ。2ポンドの鉛を溶かし込んでこれを瓶壷に注げ。それが液状になったら、そこに細い棒状の串を刺し入れ、鉛がまだ熱くもすでに安定した頃合いに串を抜き出し、そこへ水銀を注入する。量塊の全体が冷えたら、大理石の平板にこれを延ばし、そこに油を少々注ぎ、小さく砕いて、3つに分割し、小さな煤の小丸とともに混合せよ。それらは容器に封入して8日の間放置し、粉末状に砕いて、均等比の酢と《処女水》で構成された液体でこの粉末を滋養すべし。このようにして造られた柔らかい練物をば、丈のたかい硝子製の蒸溜容器に入れよ。容器の上部は粘土で密閉し、なめし革か羊皮紙を用いて硬く縛れ。そしてそれを赤熱したエニシダとオークの木炭、20ほどの鉄粉が入った木箱に押し込め。容器を入れる前に火の加減を試みるには、そこに乾いた紙片を入れてみるがよい。もしそこに輝き燃える火が点されるならまだ充分な熱さではないが、燃え残りの紙片の薄い切端が燃え尽きるなら、熱気は強すぎるので、温度が下がるまで戸口を開いておかねばならぬ。それが適正な温度になったときには、注意深くそこにひとさじの《生ける水》(第1章で記述した)を加えるがよい。だが注意せよ。蒸溜器はただ4分の3だけ木炭に覆われているべきで、満月の刻には素早く覆いを取り除いて、進行過程が一目に見られるようにせねばならない。そのようにするときにはいつでも《生ける水》をひとさじ加える。まず初めに、混合物の色は黒くなる。その後それは白くなり、様々な色彩を経てゆく。混合物は硬くなりあるいは固定したときに、幾分か濃い気味あいの紅い色彩を見せるようになり、塩性の重厚なものになる。こうなると、もはや容器の頂きに向かって奔出したり泡立ったりはしなくなる。それは40週の間、3月の25日の初めと示唆された方法で扱われねばならない。この最終段階において、混合物の硬度は容器を破裂させるほどである。この幸運な出来事が起こるときには、いとも素晴らしく香しい芳香が家屋の全体に行き渡る。それはこの最高度に祝福された調合物の誕生の日となるのである。銘記せよ、木炭の入った鉄箱はさらに別の木箱で囲われていなければならず、そのなかで調合物は空気中の有害な影響から保持されるのである。

ま、待ってくれ院長。さすがに「よくある曖昧な専門用語をいっさい使うことなしに、錬金術の完全かつ正確な説明を与えよう(第1回)」ったって、象徴や概念以外の、錬金術の実際的な物質操作が、なにがしかの成果をもたらしたなんて思ってもいない我々にとって……いや、ま、副産物的にはいろんな成功発見があったのは認められるけれども、しかしコレハあんまり直接的すぎて、逆になんのことかでんでんわからんですよ。むしろ「よくある曖昧な専門用語」をやっぱり使って欲しいくらいで。王と王妃、風呂、鳩、月に太陽、サトゥルヌス……そういうのがチョットでもあれば、ユング心理学的な解釈もできそうなものを……。

とはいえ。なにやら非常に楽しそうではある。世界に散らばる様々なモノそれ自体を弄り回すという、砂場の幼児にも似た物質的認識と快楽の感覚、あるいは料理や洗濯、掃除などの家事のさなかに解放されてゆく感覚。むう、あれだ、アントニオ・タブッキ『レクイエム』を思い出す。再会した友人とともにレストランに赴いた主人公、いや読者が、たっぷり1ページ分サラブーリョの調理法を聞かされるくだりがあって、挙げ句に友人にこんなことを言わせるのだ。

おみごと! こういうのをなんというか知っているかい、カジミーラ? 物質文化に関する高等講義だよ。僕という人間は、イマジネーションの世界に物質の実在感で厚みをつけるのが好きだったんだな。空想は空想でも、地に足ついた空想だ。集団的な想像力もまたしかり、ユング先生にはだれかがはっきり言ってやるべきだったな。想像力の前に「おまんま」ありき、ってね。

錬金術からはちょっと離れてしまったが、たしかに、象徴解釈を捏ね回しすぎて「地に足」つかなくなってしまってはイカンわけだ。そういえば、書物としての奇態さばかりが言われがちのアルトゥス『沈黙の書』も、錬金術書のわりに寓意や象徴がすくなく、器具の周りで立ち働く夫婦の姿の連続図ばかりが描かれていたような印象がある。むしかえすようでナンだがタブッキの『レクイエム』のレストランの夫婦を、この友人は「カジミーロとカジミーラ」といって冷やかしたりする。そういうのが、文学作品のなかで錬金術的なものを感じる瞬間。