第2回 錬金術の叙階定式書 第2序文

前回の「第1序文」についで、以下の長い「第2序文」が始まる。ところどころに、どこかで聞いたことがある警句が発せられている。というか、マイヤーが『逃げるアタランテ』でかなり積極的に援用しているテーマが、この第2序文にはてんこもりだ。

第二序文
唯一なる神への帰依のもと、この書は三者のうちのひとりによりて記された。我が死後も、学べる者や学ばざる者のすべてがこの善きみちびきに従い、作業の開始にあたって如何にこれを熟考することであろうか。斯様な者は錬金の術をつうじて偉大なる宝を手にすることであろう。しかしまた、この書は学べる者にとってはすでに恐るべき秘密の宝庫でもある。いまだ学ばざる者には、畏れとおののきをもってこの術を学べとこそ忠告しよう、なんとなれば犠牲おおき実践を勧める者の誤った惑わしや高らかな大言壮語により、初心の者たちが錯誤に導かれてはならないからである。私はといえば、言葉の与えうる名声などはなにひとつ求めない。ただ汝が神へと祈ること――私の名を口にする必要などはない――だけを望もう。誰しもが、著者によって苛まれることなく、そして書物の意義へと真摯な目を向けうるよう。なぜかくも篤く、人々がこれを求めるかを尋ねることあれば、ほとんどの者がただ富とものほしさから錬金術の探求に心血を注いでいることがわかるであろう。かような人物は高位枢機卿大司教、高邁なる位階の司教、大修道院長や神聖なる修道会長、また隠修士、修道僧、世俗の司祭、王侯貴族、高い地位の君主らのなかにすら見出される。あらゆる身分の人間が我らの到達のわけまえにあずかろうとする。商人、鍛冶場の制作に勤しむ者もこの術を知る欲求から逃れられない。市井の機械工もまた、これへの参与から除外されることを甘んじない。誰しもが、あたかも偉大な君主に向かうがごとく恭しく術に接しこれを熱望する。金細工師らも知識への渇望に身をやつしているが、それは熱望するものを目前にいつも見ているのだから大目に見るべきではあろう。しかし機織や石工や仕立師や製靴工、困窮した聖職者までもが哲学者の石についての普遍の探求に参与せんとするのを、我々はまことに奇妙に思わざるをえない。画家や硝子工までもが自制を失うのはともかく、修繕屋すらこれを手段にして地位を上げようと大志を抱くのは出過ぎた真似であって、硝子を染める色素くらいのもので満足すべきなのであろう。しかしながら、こうした多くの職人たちはその信用を軽々しく詐欺師に預けてしまっては騙されてきた。詐欺師らは彼らの金を煙に変える助けとなっただけだった。損失に失望させられ痛めつけられたにもかかわらず、そうした者たちはまだ楽観的な考えで望みをつなぎ、最終的には目的に到達できるだろうと期待を捨てられない。私が知っているだけでも、なんと多くの事例があることか。人生の長きを欺瞞の期待に湧かせたあげく、ついに惨めな貧困のうちに死ぬのである。失望と心痛のほか何物も手にすることはできぬと知り、すぐにでもその打つ手を抑えたほうが彼らには良いのだろう。まことにもって、よく学べる者でなければ、この術に手出しする前に踏み留まるがよい。我を信じよ、あらゆる秘奥が科学に繋がっていることに通ずる、これは決して軽々しきことではないのである。いや、これこそが深遠な哲学、確かな科学、聖なる錬金術――これが私がここに、奇天烈な文章でなく、確然と、平明な文体にて記さんとするものである。なんとなれば、一般的な人々を導かんとする者は、彼らの理解しうる言葉で語るべきだからである。だが、平明かつ簡素な文体で述べられているからといって、読者が手厳しくも私を軽んじて良いということにはならない。私に先んじるあらゆる書物が、詩的なイメージ、寓話、象徴などを過度に使用しては物事を曖昧かつ難解にし、そしてこの知識の領土に初めて入り込む者の前途を嘆かわしいほどに遮断してきたのである。これが、そうした教訓を実践しようと努める初心者がただ苦境に陥り金銭を失うに終わるという茶飯事を生む理由である。ヘルメス、ラーゼス、ゲーベル、アヴィケンナ、マーリン、ホルトゥラヌス、デモクリトス、モリエヌス、ベーコン、ライムンドゥス、アリストテレス、さらに他の多くの達人たちは、その意図するところを暗黙の帳に封じてきた。ゆえに彼らの書物、彼らが我らに下したものは、庶民と学徒にとっての終わりなき錯誤と欺きの源でありつづけ、美しい意匠に満ちているにもかかわらず、そうした言葉の荒野のなかから通り道を見出すことは誰にもかなうことなく、多くが自暴自棄にさせられてきた。アナクサゴラスは『自然変成について』において、他の者よりはるかによく自らの任を果たしている。私の読んだあらゆる古の賢者らの書物にくらべ、彼はもっとも平明に我らの知識の基礎を開陳している。だがこの理由においてアリストテレスは激怒し、多くの著述のなかで彼を過酷に攻撃している。私の見る限り、その目的は、人々が彼に従わぬようにすることであるが、アナクサゴラスは英知と愛に満ちている。彼の美徳のため、上なる神が彼に報いんことを。そして敵意と憎しみの種を蒔く者の悪しき行いを許されんことを。悪意や戯れの好みから、幾千もの処方を述べる勿体ぶった書物をものする僧侶のことである。こうした書物が、各地で転写されて、数え切れぬほどの学徒を欺き裏切り、そして彼らを貧困へと陥れてきたのである。たしかにそこには真実が描き出されているにもかかわらず、人々を偽金作りや詐欺師に変えてしまったのである。このような悲劇をみるにつけ私は哀れみをもよおし、言葉すくなに真実を記そうと駆り立てられた。汝が私と、私の言葉へと充分な注意を払えば、誤りと偽りの教えへの忠告となるであろう。偽りと欺瞞に満ちた汝の「秘法の」書を捨てよ、それらは信ずるに値しない。しかしながら箴言には十全の注意を向けるべきである。なにものもそれ自身の本質的原因なくしては作用することはないのであるから、自称「実際的賢者」に従うのは明白な誤りである。彼らは事物の原因を探求することによる知識の堅固な礎を据えていないのである。それゆえ汝は、この極めて重大な規範を絶えず心に留めるべきである。完全に「何故」と「如何に」を解するまでは、決して実験に取りかかってはならない。この術によく進歩を示す者はまた、あらゆる欺瞞を孜々と避ける必要があるのだ。神は真実であり、この術をひとに示したのは他ならぬ神であるゆえに、わずかな虚偽の汚損にもけっして濁らぬよう、己を保つべきである。永遠の原理として留意せよ、いかなることがあっても「混ぜもの」の金属に手を伸ばしてはならぬ。白色化(アルビフィケーション)や黄色化(キトリネーション)のみを達成しようと努めるもののように。軽信の輩を騙そうと、偽金作りは偽の銀や偽の貨幣を造ろうとするが、それらはけっして偽金鑑識を通過することはできない。神は、真実よりも虚偽を目指す者が誰ひとりこの神聖なる術へと到達することがないようになさしめた。もしだれか神の恩寵を得てこの術の秘奥に到達する者あれば、それは必ずや正義と真実を愛する者であろう。とはいえ、外的な(書物の)の権威によって、この術について、あまりにも心よりの熱望を抱かせてもならない。みずからの労働の果実を享受する者は、あるがまま充分な富に満足する。こうした者が様々に異なった作業過程に苦しんで時間を無駄にすることがあってはならず、『錬金術の叙階梯式書』、我を信じよ(クレデ・ミヒ)と呼ばれるこの書の指南に従うべきなのである。これこそが永遠不滅の規範となるであろう。定式書というものが司祭の日々の聖役を教え、司祭らがこれに従わねばならないように、あらゆる真実と有用な教えを記した難解至極な錬金術の書物はここに適正な手順として記される。それゆえにこの書は、謙遜な文体で落ち着いていながら、尊き科学の獲得者にとってははかりしれぬ価値を有し、記された真実を否定しうる者はない。私が神の慈悲によってこの術を会得したように、私は信義の許すかぎり――私は最後の審判のそのときに下される神の言葉を忘れてはいない――汝に七つの章を書き記そう。
第一章では、通俗から出た如何なる人物がこの知識を得ることができるのか、そしてなぜ古老らが錬金の術を神聖なものと見なしたのかについて示す。
第二章では、この術に従事した者の賢き愉悦と長き作業について述べる。
第三章では我が同輩の目的にかなうよう、アラビア人たちがエリクサと呼んだ石の構成要素を正確に記述する。そこで汝は如何にしてそれが手にはいるかを学ぶであろう。
第四章では、この術の粗野なる領域となり、これは悪臭に関することで、潔癖な人々に役立つであろう。
第五章は学べる者にのみと神が定めたもうた、さる過程に言及し、だがこれは数少ない知者のみが到達しうるところである。故に奥義はじつにほんの一握りの者しか手に入れることはない。
第六章は、配合比率の問題と、上なる天球のもとの世界の調和を扱う。これについての正しい理解は、我らの驚くべき術にかんして、多くの学徒の偉大な助けとなり、大きな補助となるを約束するものである。
第七章では、汝の火が統御されるべきところの原理が、汝へと誠実に述べられるであろう。
さあ、我が主よ、我を導き助けたまえ、我は義務を果たすべく自らを引き締めねばならぬ。この書を読むことになった誰しもに、我が魂に祈り、我が記せしところを改変せぬよう希う。良かれ悪しかれ、私がもっとも恐れるのは破門である。意識がおぼろげになるときには、これを思い出して秘奥を守って欲しい。決定的な文脈で一文字でもが変わってしまえば、書物全体の価値は損なわれてしまうであろう。私が記したことが無傷で損なわれていないかを吟味せよ。これら言葉は平明であっても、極めて重大な真実が秘められている。一度や二度読むべきものでなく二十回は読まねばならぬものである。汝のもっとも良い計画は錬金術について多くの本を読むことであろうが、この書物はその最後となろう。

最初の「猫も杓子も錬金術」みたいなくだりは、なんだか当時の市井の風景がみえるようでちょっと微笑ましいかんじがする。そういう、実践にあせる学徒をいさめつつ、自然哲学の理論がだいじだよ、という姿勢は、やっぱり『黄金の鼎』のイラストに現れているところに通じるように思われ。かといってワケワカラン象徴の入り乱れる秘伝の書は、失敗の原因だから捨ててしまえ、というのは、マイヤー『アタアランテ』の「象徴11 ラトナの肌をば白くせよ、汝の書物は引き裂くがよい」にも見える。さてここからノートン師はどうやって謎のヴェールを剥ぎ取り、「平明かつ明確に」述べていくものか?