古書買い

ルドルフ・シュタイナー『アカシャ年代記国書刊行会
目眩のするような濃厚な詩想に支えられた宇宙論。20世紀初頭の神智学は伝統的オカルティズムを現代性へと対応させんと勤しんだ側面がつよい様子・・・だから昨今の、「宗教」と言うとヘヴィで気味の悪い金儲け的な悪意や気持ち悪さを感じる一方、簡単に「スピリチュアル系」の占術やら霊能開発やら自己啓発やらにどっぷりはまっちゃう人がいる(らしい)あやうい風潮のなかでドウ読まれるのか、現代的な意義があるのか、これはムズかしいところではあるが、じゃあナニかい、レヴィとかクロウリィとかブラヴァツキィ夫人であれば健全だでも言えるわけでもないだろうから、神秘学的SFのように読めれば、これ以上無いぶっ飛んだ幻想文学として重宝できるんじゃあるめいか。一気に天上へ昇りつめる程のトンデモではないが、何処とも頁をめくれば地上と天上のあわいから人類史を俯瞰できるような霊感衝動を味わえるかもしれない。

■ジャック・カゾット『悪魔の恋』国書刊行会
「何ぞ御用!」言わずと知れたロマン派の先駆、幻想文学の代表作。いままで抄訳を読むに留まっていて、なにせ国書の「幻想文学大系」は古書でみつけるとえれえ高けえから手が出し辛かったんだが安く買えたんで今更ながらホクホクの一冊。・・・たしかボルヘス編纂の「バベルの図書館」にも収録されていたように思うが、そういえばアノ長い空色の変形本は最近めっきり見かけなくなったなあ。どうやら整理をつけにくいから敬遠されてでもいるんじゃないだろうか。さて強烈な意志力で召還した悪魔=精霊を小姓ビヨンデットとして仕えさせる主人公だが「フ」とした意識の隙間からこれを美女ビヨンデッタに変身させてしまうあたり、これがじつに夢の理論、深層世界のめくるめく錬成術の一環なんである。そういやあ、ルイスの『マンク』に出てくる修道士ロザリオ=魔女マチルダもそうだし、最近だとタブッキの短篇『判じ絵』を映画化したと思しい『ブガッティ・ロワイヤルの女』では、車をレストアする自動車修理工と、ブガッティで一緒に走りまくる謎の美女がなぜか不気味にそっくりだったりする、そういうところに男女のレビス的転換が起きている。カゾットの『悪魔の恋』は、美女の魅力に屈したらオシマイだ、というような恋愛のアイロニィというか、男性諸氏への警鐘のように語られることも多いけれども、人間の奥深いところで絶え間なく生起している対立要素の転換・変成運動という夢の論理が働いている極めて自由な超現実を描いているからこその名作なんじゃなかろうか。召還されたベルゼビュトがいきなり駱駝の頭で登場するところなんかも最高。駱駝だよ駱駝。

ル・クレジオ『物質的恍惚』新潮社
『Mondo et autre histoires』は『海を見たことがなかった少年』なんて邦題になって訳されてたんですね。ル・クレジオというとそれしか知らなかったんで、心なごむ大人のための絵本、的なものを書く人だとばっかり思ってた。ところがコレは判りやすい作風への転換期に当たる作品だそうで、それ以前にはこういう硬質なエセーをやってたんだなあと妙に感心させられた。シュルレアリスム経由でバシュラールの詩的科学論に触発されて錬金術文書に魅せられちゃってる自分にとって、この邦題『物質的恍惚』ってのはかなりピンと反応するものがあって、これはジャケ買い、という衝動に近いかもしれない。一読かなりレベルの高い詩想が一方的にまくしたてられるような雰囲気だが、無限に広漠たる物質世界に一点ポツリとうまれた人間意識が世界をとらえてゆくという、モノスゴイ過程が描かれている。全然違うかもしれないけれど『ドグラ・マグラ』の「胎児の夢」あたりに反応するひとは好きかもしれない。あたしゃこういうのに強く「錬金術」を感じるんだけどな。

■アントナン・アルトー『演劇とその形而上学白水社
これまたテンションが高い・・・今日の古書買いはドウかしてるとしか言いようが無い。アルトーは『神経の天秤/冥府の臍』とか『ヘリオガバルス』が有名だけども演劇人としての著作はあんまり知らなかった。驚いたことにこのなかには「錬金術的演劇」という一章があって(まあシュルレアリスとたちは錬金術に意識的だったんでそんなに奇異なことではないんだけれども)最近わかい演劇人たちとの付き合いが多い私には、なんかこう「我が意を得た」感じだった。この実学万能のメガトン消費経済社会のただなかにあって、何の役に立つのかワカラナイ表現に熱を出しちゃって、なにかを成し遂げんと躍起になる演劇人と汲めども尽きぬバカ話なんかをしてると、実に生き生きしてて面白い。身体感覚が絶妙に鍛えられている彼らとの話のなかでは、自ずと言語表現は敬遠されてくるので、そこで錬金術の話なんかはしないんだけれど、自然にきわめて錬金術的な話になってきてたりする。試みにアルトーの文章を引いてみよう。「演劇の原理と錬金術の原理には不思議な本質的同一性がある。つまり演劇も錬金術もその原理、其処に流れるものを考えてみると幾つかの数の基盤に結びついている。そしてこの基盤はあらゆる芸術、技術にとって同じであり、物理の分野で実際に金を造り出すのと類似した効果を精神的な想像力の世界で目指しているのである。だがそればかりではなく演劇と錬金術の間には更に高度で形而上学的にはるかに重要な類似がある。それは錬金術も演劇もときにいわば潜在的でそれ自身の中に目的ばかりか現実性さえ持っていない技術ないしは芸術だということである。」

ガルシア・マルケス『青い犬の眼』
たまーに読むラテン・アメリカもの。でも100年の孤独よりはドノソ『夜のみだらな鳥』のほうがラテン文学的には上だと思い込んでいる。