オーソン・ウェルズ『審判』 フランス・イタリア・西ドイツ 1963 118分



市民ケーン』と同梱のDVDを購入。とにかく大好きな映画で昔からビデオを持っていたんだがその都度どっかいっちゃってなかなか手元に在ってくれない、んでもってあるときなんかの拍子でどうしようもなくまた見たくなるモンだから始末に負えない。

目眩のするような、めくるめく光と闇の映像、そしてコノ悪夢の論理で展開する「超・条理」=「不条理」の展開には、なんだか中毒性があるのかもしれないぞ。映像美だのカメラ・ワークだのをいえば、オーソン・ウェルズはどれもただ観ているだけで心地いいんだけど、なんだか『審判』だけは別・・・悪夢、という自覚があるわけじゃないが、実際、自分もこういう「夢」を見ることがあるからだろうな。職場にとつぜん親戚があらわれて邪魔クサイとか、だだっ広い空間と、息づまる狭い部屋を伸縮自在にする夢とか。・・・悪夢に近いな、やっぱ。夢判断じゃないけれどこういう「よくある夢」を命名した心理学用語みたいなものって、あるんだろうか。

好きな映像は挙げればきりがないけれど、オープニングの「この扉はお前のためだけにあるのだから・・・」というアレキサンダー・アレキセイエフの紙芝居は、何度観ても心に迫るものがある。巨大な司法システムという激流に一個の実存が翻弄される様をみごとに要約した、カフカの原作中の挿話だけど、時代や国を考えてみても、カフカってひとはなんて勇気のある作家だったんだろうなと思わされずにいられない。ネタバレになるが、終盤にこの挿話がオーソン・ウェルズ扮する尊大な弁護士に援用されて「だいたい裁判てのあそういうモンなんだよ、この被告人風情が!」という具合に実存を突き付けられる場面に繋がっていく。ああ、もう喪黒福造の前にでも立たされた方がマシだ。

最近の映画にも小説や漫画からの映画化があるけど、なんかこう、まんまっていうか、まあ「原作に忠実」なんだろうな、TVドラマの影響もあるかもしれない。でもなーんか見ててハズカシいのは、あれって映画化とコスプレをはき違えちゃってるからだろうな。映画化とかテレビ化って、以前はもっと制作や監督の主観というか、読解、解釈が加わって、あるいは現代批判とかあるいは世界観が加わって、違うものとして提供されてた気がするんだけど。でなければ、とある原作を違うメディアで作り直す意義って何処に在るんですかねえ・・・。