第4回 錬金術の叙階定式書 第1章(2)

つづき……。いち画面で収まるくらいの長さかな、というところでUPしております。

この術が、その目指すところのために聖性を否定されるのも尤もなことではあるが、それでも尚この術は核心に秘めた理法のゆえに神聖視されて然るべきである。何人たりとも神の慈悲無くしてはこれに到達しうることはないのだから、卑俗の銅を高純度の銀や金に変えるのも神学的な勤めのなせる作業であり、神聖なものである。このような変成の力を、おのれ自身の思考から導き出しうる者は誰ひとりとしていない。神が組成した様々に異なる物質を、ひとは容易に分離することはできないからである。神自身がその寵愛する者へと、この強力な科学を許し給うたのでなければ、自然の運行を促進しうる者などいないのである。それゆえ、いにしえの賢者らは錬金術をいみじくも聖なる科学と称した。この神の聖なる賜物を軽んじる驕傲は誰にも許されない。留意せねばならぬのは、博く学識を重ねた者たちからも神はこの知識を封じ、真実を忠実に愛し慎ましくいきる下級の者たちにこそ、慈悲もちて示されたということである。数え切れぬ天上の星々のなかに、たった七つの惑星しか存せぬよう、この知識に到達するのは夥多なる衆のなかのかろうじて七人ほどであろう。ひとの人生を鑑みるに、深く博識もつ学徒も、他の探求者たちも、我らの科学を手に入れようと励む者は枚挙に暇がないけれども、しかし彼らの微に入り細に入る労働は、なんらの甲斐もなかったことはよく分かっている。探求へと財産の全てをつぎ込んだにもかかわらず、すべては失敗に終わる。果てしなく的を外しつづけ、ついに彼らは自棄になって探求を諦め、この術が、ひとを苦しめるだけの騙りごとだという辛い結論に達する。その稔り無き探求は、我らの変成力を無駄な絵空事として糾弾し始める。思い込みの激しい輩は、おのれの叡智とどかぬところのものを無価値であるとみなしてしまうようだ。だが我々は、そうした者たちの誹謗中傷にそうひどく拉がれはしない。その実なにひとつ理解せぬまま己の勝手な考えに自惚れる輩は、我らの宴の客人にはなりえないのである。こうした人々には我らの変成力を理解しえないが、それでも尚、術が真実であることに変わりはない。思慮なき空疎な自尊心で高ぶる輩はこの真実を否定してしまうが、けれども事物を明確に認識しない者は信頼に足る意見を述べることはできない、それはあらゆる賢者も同意するところである。絵画について盲目の者の意見に耳を傾けるほど不毛なことはない。更に、かような輩は随分と己の知識の深さに溺れるものでもあるが、彼らが聖ポール大聖堂の塔を建立しえないからといって、聳え立つ塔を根本から破壊できるものか、これはひどく疑わしいものである。のみならず、この世の秘める深奥へと突貫しうるほどの鋭さを彼らに信じるのは到底不可能である。さて、もはや彼らについては何も言うまい。かような者は己自身の無学の悲惨に留まっておればよいのである。

ずいぶんまえに書いた「術師は金を求めたか?」というのを思い出した。う〜ん、まあ2年も前にフと思いついたことだから大分飛躍気味だけれども、「卑俗の金にあらず」っていうテーマを考えるきっかけにはなるかも。
たしかにねえ、「自然の秘密知ってます!」っていうより「金が作れます!」って言えちゃう人のほうに大衆はなびくからなあ。最近マイブームなのは、文書のちょっと自慢気なところを訳すときにジャ○ネットの高○さんの声で読み直してみること。ちょっと裏返った声で「さぁ〜て汝、我を信じよ、今日はクレデ・ミヒの紹介です」とかいう。錬金術文書には、というか錬金術じたいに、なんかこう、実演販売とか、その話術めいたところを感じる、ときもある。とはいえ、最後の突き放しっぷりはクレマーさんひどい。