第6回 錬金術の叙階定式書 第1章(4)

以下、これにて第1章はおしまいです。

斯様なものが、いつ、如何にして地表にて増加しえるのであろうか。誰でも平均的な知性のある者であれば、水が凍ることやそれが場所によって多寡のあることくらい知っている。凝固前の水は、小川や溝渠では少ないが、しかし湖や河川はより多量の水脈たりえる。そして多量の水のある場所のほうが沢山の氷を産するものだ。けれども、これを氷の生育だとか繁殖だとかというのは明らかに不合理であって、それは、湖や河川が水路や小川よりもずっと多くの量を蔵しているのである。これと同様に、山脈中に金属種が生長する必然性はなく、さる一定の場所で金属は他の場所よりずっと多量に存在しているだけである。いかなる金属の小片もまた、内在原因の発露から量を増加させることは決して有り得ず、そしてまさにこの点が鉱物種の、植物種や動物種と異なるところである。植物の種は、たとえば殻斗果にみるように、今は未だ眼にそれと識別はできなくとも、自身の内に樹木の幹と葉を実質的には内蔵している。しかし金属種はたとえ硝酸で溶解されても、必ず同じ組成状態のままである。一オンスの銀はそれ以上にも以下にもならない。植物界に属するものであるか、するどい感覚を備えた生物の類でなければ、内面の活性によって繁殖するものは存在しない。金属種は、種子も感覚ももたぬきわめて根源的な物質であるから、我々は金属の繁殖などというものによって詐欺的行為が試みられるようなことは封じられるべきと断じねばならない。たしかに金属は、いったん生成されれば生長ということによって量的に追加されることは決してないのであるが、我々は物質にとって起源を同じくする性質へと尋ね入ることにより、ひとつの金属が、異なる種類の金属へと変えうることを知った。たとえば、鉄は銅へと変質しうるのである。しかし哲学者の医薬なくしては、まことの銀や金を生ずることはできない。かくして全ての真なる賢者たちは、繁殖というまやかしから広まった欺瞞を忌み避けてきた。まことの術、聖なる錬金術にこそあらゆる栄誉と崇敬は払われ、それは純粋なる金と銀を造出する徳目を秘めた、とうとき医薬を追究するものである。カタロニアの都市にはレイモンド・ルルに帰された、この変成に関する一例が存する。これは七つの像で構成されるもので、真実に至る途が仄めかされている。三つの寓意図は銀色に描かれた婦人の像であり、四つは流麗な黄金の衣装を着けた男たちが描かれている。それぞれの衣服の裾にある銘を、ここに記そう。ひとりの婦人の衣には「かつて私は蹄鉄の古い鉄でした」とあり、「しかしいま私は無垢なる銀です」という。さらに別の女性が言うには「私は金属臭のする鉄でしたが、今は純粋かつ固形の金になりました。」三番目が言うには「私はかつて、使い古しの銅のかけらでしたが、今や完全に銀となりました。」四番目の像が言うには「私はかつて、汚らわしきところに醸成されし銅であったが、今や神の命にて完全なる金となった。」五番目の像は「私はかつて純粋無垢なる銀であったが、今やさらに素晴らしき金である」という。第六番目の像は、二〇〇年ものあいだ鉛の導管であったが、いまや完全に偽り無き銀と知られると、高らかに宣言している。第七番目は「驚くべきことが私に起こり、私は鉛から金に変えられた。けれども我が同胞姉妹たちのほうが私よりずっと黄金に近い」といっている。
錬金術の名は、アルキムスという或る王の輝かしい記憶に由来しており、それは寛大かつ高貴な君主であり、斯道を最初に探求した人物であった。昼夜、自然への問いかけをやめることなく、ついに自然より得難き秘密を獲得した。ヘルメス王もまた諸学に通暁した人物であった。その『四書』は四科に分かれた偉大なる自然の学を論ずる。占星学、医学、錬金術、そして自然魔術である。王はこの書の中で、次のように自身を説明している。「事物のあるがままを真に知る者は幸いなる者である。知識に相当するところを正しく証明しうる者は、幸いなる者である。」 
原因の解らぬものに己の理解を信じ込んでは多くの者が欺かれている。それが彼の王の主張するところであった。大抵の場合、妄想の渦のなかには真の知識の片鱗すらも存せぬというのも、いにしえより存する格言である。万物を証明せんとする態度、そして思慮分別によって、学べる者は今もまた情報の蓄積を増しているということもまた事実である。ひとは、知識によって自身と万物を理解する。ひとは、知識なくば獣でありかつ獣にも劣る。知識の不足はひとを獰猛かつ乱暴にし、教練はひとを高貴に穏やかにする。当世、高貴なる者たちは、自然の秘奥を理解しようと望む者をさげすむ振る舞いに及ぶことがあるが、かつては高貴な生まれか、燦然と恵まれているか、さもなくば王侯ですら自由七科を学んではならないことになっていた。知識に傾倒した者はその追究に人生を費やすよう捕らわれてしまうので、ゆえに古代の世から、これら科学は自由七科と呼ばれ、その完全な達人となるを望む者は、この科目のなかに学ぶ自由の精神のなかに自らを歓喜させてきた。原則を探求する学問へと自身を没頭させ、多くの技芸に通ずる円熟した学徒を目指す者には、あらゆる現世の心労からの自由が必要であり、そうした人物には世界の労苦や歓喜に背を向ける、さらに堅固な理由があるのだ。こうしたことは、学べる者が貶まれる根拠を充分に示してはいる。しかし、日々真実の知識を増しつつある者の輝かしい記憶は不滅のものとなりうる。叡智、正義、仁慈を愛する者の受け容れられぬ局面は少なくなかろうが、刻はその者の額を、黄金の冠で飾ることとなろう。さしあたり我々は、己の意志もちて知を愛する者が、無知なる大衆に無視されるよう、期待をかけねばならぬ。たとえ、その多くが稔り少なき学問に自らを捧げることになろうとも、貪欲と科学は相容れぬ伴侶であることに心中耐えねばならない。その好むところが金銭的に過ぎぬものへ駆られる者は、術の秘密などに到達すべくもないが、自身の目的に於いて知識に喜びを見出す者ならば、正しい精神のなかで我らの術の修得へと近付き、そして左様な人物に成功が約束されるのである。この章ではもはやこれ以上述べる必要のあることはない。我々はすでに、妥当な成功の望みをもって聖なる錬金術の修得に専念する者たちの姿を明らかにした。そうした人物たちは敬虔なキリスト教徒であり、簡単には意趣を変えることのない者である、ということを繰り返し言っておこう。野心からも解き放たれ、他者から借用をする必要もなく、忍耐と根気、揺るぎない神への信頼に満ちているのである。かような者たちには、清濁を併せ呑んでも、知識に従う準備が出来ている。その人生には、罪業も欺瞞もない。ただそうした人物のみが、科学に於いて達人となるべき精神的適正をもっている。次なる章では、その愉悦と悲しみについて論じることとしよう。

はじめの部分では、体積の膨張のことを言っているのかと思ってちょっと悩んだけれども、ただ金属の見つかりやすい「鉱脈」という観点から、「繁殖」を糾弾してるだけで、単純な話のようだ。「金属は生き物じゃないんだからね!」というクダリは、まだまだ無学な大衆には必要な説法だったんだろうなあと思わせる。
中盤に、錬金術の始祖だという、聞いたこともない人物「アルキムス」というのがでてきたり、プトレマイオスの「四書」がヘルメスのものになってたり、ちょっとトンデモ?な気配あり。ワシの誤訳かなあ……。
後半の「オタク理論」みたいなところも含めて、まだちょっと訳文がグダグダなので、まだ折を見て手を入れたいと思っております。