第10回 錬金術の叙階定式書 第2章(4)

もし汝の心が美徳に忠実であれば、悪魔は全力を尽くして汝の探求を阻止するであろう。性急さ、絶望、欺瞞という、相次いで仕掛けられる三つの躓きの石がこれであり、悪魔が恐れるのは、汝がこの秘奥に通じて良き作業に成功することなのである。第一に、あまりに性急にことをなそうとするところに罠は潜んでおり、これが汝の作業をひどく損なうことになる。『哲学者の饗宴』という小品にもあるように、この術について記したあらゆる著者たちは、度の過ぎた癇性は悪魔のなせるところであると口を揃えて言っている。そのようにして悪魔は、作業の早い段階に於いてすら、少々の遅滞を気に病む者に素早く終止符を打つのである。しかし賢明に振る舞う者は、急がば回れの格言が示すほんとうの価値に気付くことであろう。性急さに取り憑かれた者の作業は、一ヶ月経てど一年経てど完了できない。急く者に不満の種の無きはなし、それがこの術に於けるひとつの真理なのである。冷静な者たちは、性急さが真実の頂点から汝を身投げさせる悪魔の狡猾な罠であり唆しであることを確信している。性急さは、正しい路から我々を逸らす鬼火である。冷静沈着な者は、おのれの癇性へと気丈に面を向けている。そうした者たちの振る舞いは節度のあらわれであるけれども、それは性急さというものが術の作業のすべてを妨げるものだからである。努々、性急さは悪魔の罠と知り、身を守るがよい。作業に急く気質を助長する過度の熱情については、以上が充分な注意となろう。多くの者たちが、自らを鋭い悲しみで貫き刺している。それは、彼らが性急にすぎるからであり、究極へ至らんとして取り乱しているからなのである。こうしたことは妖魔の誘いから生じていることなのだ。性急さというものについてはこれ以上語るべきところは無いが、忍耐力こそが天恵の者には相応しいとだけここに加えておこう。そして、我らの敵は性急さで汝を拉ぐことが出来なければ、今度は虚脱によって汝を襲うであろう。これは汝の心を継続して落胆の思いに陥れる。そもそも、成功する者がほんの幾人かしかいないにもかかわらずこの術を求める者のなんと多いことか。そしてその中で、おのれよりもずっと賢い者たちにすらが手抜かりがあったのであろう、などと思う。それで、大いなる秘奥を己が手に入れることになぞ、何の希望が残されているというのか、という疑念に至る。更に、汝の師匠が必ず与えると約束した秘奥を、実際彼がもっているものなのか、あるいは師は、知っていることの最も良い部分を汝から隠し立てしないものかどうか等々。かように疑いの念は汝を苛むであろう。邪悪なるものは、不信と落胆で汝を目的から逸らそうとこれらの疑いで汝の心を満たそうと努める。その攻撃に抗しうるものは徳性から鼓吹される静かなる信頼、堅実で思慮深い推論だけである。汝の師匠や導師の高潔さを沈思すれば、汝の恐れは風に散るであろう。師は、愛と献身によって汝を導くために現れたのである。そのことに思い至るならば絶望する必要など何もあるまい。確かに、奉仕を申し出てくる者を信用するのは難しいものである。そういう人物はこちらが求めるよりも多くをこちらに求めてくることが常であるからだ。けれども汝の師が、私が汝に求めるよう示した如くの人物であり、その師もまた汝を待ち望んでいたのであれば、汝は不信の矢に堅固な防備を築かねばならぬ。そして汝の師が、まったくもって私の師匠のような人物であれば、汝の師に対する疑いは許されざることとなろう。我が師は高潔な人物であり、真実を愛し、義に篤く、欺瞞の敵であった。さらに秘奥の良き保護者であり、仰々しく知識をひけらかす者あれば知らぬ振りで平静を装い、師の元で薔薇の色について語る者があれば、彼は容易に踏み込めぬ重い沈黙をもって傾聴していたものであった。私が長年付き従ったのはこういう人物であった。だがこの師も、私が多くの試練を乗り越えて素質を証明するまでは、何一つ重要なことを与えてはくれなかったものである。私が心から真実に忠実な者であるとわかり、大望を心に秘めていることを見て取るや、師はその眼に神の意志より来る恩顧を宿し、私に心傾けたのであった。こうして師はついに、私への秘儀の伝授が一刻も遅れるべきではないと思い至った。私の学んだことが充分であり、汚れのない魂が師の心を動かしたのであった。師は筆をとって以下のように書簡をしたためた。「信義篤き我が友、親愛なる同胞よ。我は汝の要求に応ずることに逆らえぬ。もはや汝の如き人物は我が前に現れることはなかろう、汝、我が恩顧を受ける刻は来た。汝の雄渾なる気骨そして篤き信仰、世人の認める徳と叡智、汝の誠実と愛と忍耐、志操堅固、汝の魂の高潔なる大望。汝の素晴らしき精神のありさまに今こそ我は報いよう。永遠に続く汝の慰安と安楽に、力強き秘奥を開示することによって。この目的のために、口頭にて汝と会談するの要あり。もし我が汝に記述にて示せば、それは我が誓約に反することとなる。ゆえに我らには会うことが必要である。汝が来たるときには、我は汝を我が術の継承者とし、我はこの地より去ろう。汝はこの偉大なる秘奥に関しての我が同胞、我が跡取りとなる。このゆえに、この書信を受けたことを神に感謝したまえ。継承権を得るよりも、戴冠されるほうがよい。神が御自身の天界の聖人に次いで列する者のみが、そのあまりに高き道義によって、必ずやこの術を継承する。今はもう我は汝にこれ以上書かない。今すぐに馬に跨り、我がもとに来たれよ。」私はこの書簡を読み終えるとすぐに出立し、距離は百マイル以上であるにもかかわらず、我が師匠の元へと馳せ参じた。私は師に従って四〇日を過ごし(私はこの王国における他のあらゆる人物に引けを取らぬほどに、斯道を心得てはいたけれども)錬金術のあらゆる秘奥を学んだ。しかし、作業そのものが四〇日のうちに完了すると考えるのは愚かなことである。私はその時間で充分に指導されたが、作業そのものは長い期間を要したのである。。開かれた自然の門の秘密とは、闇に沈んだあらゆるものが光の如く澄み渡ってゆくものであった。私は万物の原因と理論とをまざまざと目前に見た。私にとっては、それは疑うことも諦めることも、もはやかなわない。もし汝が私のように運良く導師を得れば、汝は決して落胆に襲われることはあるまい。

術者のメンタリティの問題を悪魔に帰する心理学は、この時代の流行だろうか。確かに、デモノロジィや魔女裁判がさかんだったのはこの時代のドイツとかフランスだったと思しい。というか、ノートン師その人がサンザン不安を煽ってるようにしか読めないな、コレは。
それと、今回の終盤で出てくる筆者の「師匠」は、『錬金術の歴史』のE・J・ホームヤードによれば、ジョージ・リプリー卿ということになっている。