悪魔について

先日の記事「第10回 錬金術の叙階定式書 第2章(4)」でうっかり「術者のメンタリティの問題を悪魔に帰する心理学は……」などという書き方をしてしまったが、ちょっと性急だったかもしれない。そもそも悪魔ってのは何だろうかと。ふつうに辞書で【悪魔】というと、

(1)キリスト教で、人の心を迷わし悪の道に誘おうとするもの。人の姿に似て二本の角と四つに裂けた足指を持つという。悪の象徴で、善の象徴である神に敵対する。サタン。デビル。デーモン。堕天使。「─に魂を売り渡す」「─の誘惑と闘う」 極悪・非道・性悪(の人)のたとえに使う。「あいつは人の姿をした─だ」(2)仏道修行をさまたげる悪神。魔。魔羅。

という((((;゜Д゜))ガクブルな定義が出てくる。「人の姿に似て二本の角と四つに裂けた足指を持つ」ってマジか! そういうヴィジュアル面はともかくとして、たたみかける「サタン。デビル。デーモン。堕天使。」という羅列もまた何かを罵っているようでなんともショッキング。さらに新教出版社『聖書事典』というのを見てみよう。

【あくま】悪鬼・悪霊を部下として統率する首領。すなわち「悪霊のかしら」(マタ12:24)でサタンと同一者であるととされ、ベルゼブルと呼ばれることもある(マタ10:25, マコ3:22, ルカ11:15,18,19)。サタンは神と人類との最大の敵で(Iベテ5:8, Iヨハ3:8)、人々を罪に誘う(ヨハ13:2)。しかしながら、彼は神の支配外にある別の神ではなく、審判の日には永遠の日に投ぜられる(マタ25:41, 黙20:2,7,10)。
ベルゼブル】悪鬼の長で、サタンの同義語である(マタ10:25,12:24,27, マコ3:22, ルカ11:15,18-)。この言葉は〈バアルゼブル〉(住居の主)のアラム語形であるが、新約時代のユダヤ人は、それを〈下界の主〉と解していた。
【サタン】旧約で〈サーターン〉はもと〈敵するもの〉を表す普通名詞で、個人または国家への敵対者を指す(民22:22, サム上29:4, 王上5:4, 詩38:20)。のちに定冠詞を伴って、超自然的存在としての敵対者、すなわち〈悪魔〉の固有名詞となった。それは神の子たちの一人としてヨブに敵し(ヨブ1:6-2:7)、また主のみ前にあって大祭司ヨシュアを責めている(ゼカ3:1)。新約では、そのギリシャ音訳〈サタナス〉がイエスを試みるものとして現れ(マタ4:1)、偽り(使5:3)、殺人の扇動者(ヨハ13:27)、絶えず人を神から離反させようとし(Iペテ5:8)、すでに多くの者を獲得している。それは「悪魔の子」などと呼ばれている(使13:10)。サタンは空中にあって悪魔の王国を支配し、人間の生活の上に悪魔的な感化を及ぼすと信じられている(エペ2:2)。しかし聖書中には、神と二元的に対立する〈サタン〉はいない。その働きは神に制限されており、最後にはキリストによって滅ぼされる(ルカ10:18, ヨハ3:8, 黙20:8)。

さっきの角だの爪だのは出てこないが「絶えず人を神から離反させようとし、すでに多くの者を獲得している」とか「空中にあって悪魔の王国を支配し、人間の生活の上に悪魔的な感化を及ぼす」とかいうのがまた((((;゜Д゜))ガクブル。
ところで「デーモン」とか「ルシファー」とか「レヴィアタン」とか、そういう有名な魔物の眷属たちの名前はどこからでたものかと。吉田八岑『悪魔考』西洋暗黒史外伝』などは、もうかなり古い本ではあるけども、このあたりの魔道の歴史を、おかしな熱意からでなく、キリスト教会政治の恐るべき狂気の時代が取り憑かれていた虚妄として描き出している、今読んでもなかなか良い本だと思う。この『悪魔考』の第1章によると、神に対立するもろもろの種族ということで例の知恵の実を人類に食わせた「蛇」からカウントして、聖書だけでもけっこう具体的な悪魔の名前が示されている。ベールゼブブ(ルカ伝11:15)アスモディウス(トビト書3:8)アポリヨン(黙示録9:11)ルヴィヤタン(ヨブ記3:8)ベリアル(コリント後6:15)という具合で、ルシファーというのはイザヤ書に出てくる。すでに3〜4世紀ごろ、修道士や隠者たちの恐れ戦う相手としての悪魔の性格付けはなされていたようだが、この辺はフローベール『聖アントワヌの誘惑』だろう。『悪魔考』では、『聖アンソニーの生涯』は360年に成立している。このあとの約1000年間くらいというのが、教父哲学やスコラ学のなかで悪魔の実在を認めるかどうかの論争があったりして、だんだん異端審問や魔女裁判で人間を燃やすネタが確立していった時代だから、これがまあ悪魔のかなりの活躍期だったといっていいのだろう。13世紀〜18世紀の間には魔物の眷属に詳細な性格の設定がなされてゆく。天使学の裏返しのような位階制度も確立して、どうも悪魔学というより魔神学めいてくる。細かい説明は省くが、どこかで聞いたことのありそうな「悪魔」を示す名前の大体の意味するところを整理してみよう。
【デーモン(demon,daemon)】悪魔、悪霊、悪鬼、魔神といった包括的な意味で使われているが、ギリシア語源での「ダイモン:神と人の間に位する超自然的存在」とか「人・土地などについている守護神」という意味が重要で、ヤオヨロズの神みたいな土地神や地霊から、ランプをこすると出てくる魔神のような式神のようなものもこれにあたると思われる。その土地毎に敬われていた「小さな神」たちが、キリスト教というメジャー・ムーヴメントのなかで悪魔、鬼として貶められていく過程はヘルメス叢書、アルフレッド・モーリーの『魔術と占星術』に詳しい。


【ルシファー(Lucifer)】いわゆる魔王、神に反逆して魔の軍勢を率いた元天使。悪魔=堕天使という、なんだか現代のヴィジュアルバンドのヴォーカルみたいなイメージの源泉。ただ、イザヤ書にルシファーが出てくるというのは、聖書翻訳の過程で生じた誤解によるものらしい。俗説では大天使ミカエルと双子の兄弟だったとかなんとかいろんなエキサイティングな話の尽きない、コウモリの羽をつけた半裸の美少年。ダンテ『神曲』ミルトン『失楽園』参照。7つの大罪では「誇り(驕り)」担当。ちなみに、悪魔がなんでコウモリの羽をつけているのかについては、ユルギス・バルトルシャイティスの『幻想の中世』というすこぶる面白い本がある。

【ベルゼブブ(Beelzebub)】悪霊の首領、魔神の帝王。サタンに次ぐ実力者だが、その故郷はシリアらしい。旧オリエント世界の農耕神バールの尊称「バール・ゼブル」が、それを嫌うヘブライ側から直訳されて「ハエの王」とされた。旧約、新約いずれの時代に於いても最高最悪の反逆者で、ルシファーを補佐する姿は『失楽園』でも立派。なんとなく牛若丸と弁慶のイメージだが、7つの大罪では「暴飲暴食」担当する。


【アスモデウス(Asmodeus)】ゾロアスター教徒から一貫して善人にちょっかいを出していたらしい。宜なるかな、7つの大罪では「淫欲」担当という普遍性。もはや「堕した」とかいう存在ではなく、ことの初めから「人間性欲第一じゃ」と高らかに宣言しちゃうエロ親父。しかし一説では数学、とくに幾何学が得意らしい。どうやらインキュバスやらサキュバスなどの夢魔のボスをやりながらも、理想への愛としてのエロースというのもまんざら嫌っていないようだ。



【アポリヨン(Apollyon)・アバドン(Abaddon)】災いと戦争の王、徹底的は破壊者で蝗害(こうがい)の犯人。大蛇ピュトーンを倒したアポロンが狂戦士化した姿という説もあり。ギリシア語での「底なしの穴の魔王」という意味から由来しているらしい。





レヴィアタン(Leviathan)】レビヤタンとも。悪の象徴する巨大な海獣。悪魔というより怪獣の印象だが、海の底にいるかも知れない巨大生物というものはいつの時代も恐怖を煽るもので、7つの大罪では「嫉妬」を担当し、主に女性の心に取り憑いて嘘をつくようにし向ける。その辺はまさに愛情の裏返し、これまた海よりも深いということか。




【ベリアル(Belial)】律法を熟知した「不正行為の器」。
7つの大罪での分類では他にマモン(貪欲)、サタン(怒り)、ベルフェゴール(怠惰)というのがある。『悪魔考』ではさらに、1612年に悪魔払師セバスチャン・ミカエリスが記した『恐るべき歴史』における堕天使の階級表があって、堕天使団、悪の軍勢の一覧が詳しいけれども、ここでは割愛しよう。ともあれこの時代は何に煽られてかこうした悪魔についての学問が隆盛を極め、これを根拠に無学な、どちらかというとあまり洗練されない人間性のほうに忠実な人々を「浄化」する論拠にもなっていたわけだ。

近代になると悪魔と悪魔学は、退廃貴族らのおもちゃにもなって、スリリングな暇つぶしの「悪魔礼拝」だの「降霊術=悪魔召還」だのに利用されてゆく。この辺はユイスマンス『彼方』によく画かれているし、マシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』などのゴシック・ロマンスとか、ジャック・カゾット『悪魔の恋』以降の幻想文学の舞台でもある。反面なんだか恐ろしいことに、この辺からちょっとおかしくなってきたのか、ヒステリーの歴史も見逃せないところで、教会の権威とか信仰心が影響を失い始めたあたりから、いわば「悪魔憑き」患者も増え始める。確かな歴史的統計とか資料がないので明言できないけれども、フロイト以前のメスメリズムも含めて、現代にまで至るエクソシストの活躍を考えると面白い結果が出るんじゃないかと思ってみたりもする。そういえば、最近どこかで「悪魔祓いの全国集会をローマ法王が激励」したとかいうニュースを見た気がする。
いいかげんな話ついでに趣味のことを書いておくと、ミッキー・ロークの探偵がやけに良いかんじの映画「エンゼル・ハート」はモウ何度見たかわからないほど。ミステリーとしてもホラーとしてもそんなに面白くはないしオカルティックな考証とか描出も正確ではないけれども、純粋に映画として、光と影の陰影や映像がすこぶる悪魔的な画になっている。そういえば黒人文化への眼差しにもブードゥとかを絡めて悪魔学が利用される向きがあったりする。あと、最近みたキアヌ・リーブス「コンスタンティン」も漫画だが面白かった。現実に対しての地獄の位置関係とか、天使と悪魔の軍勢の関係とかのアウトラインが創作的でへぇナルホドなあという感心。

……長くなってしまったが、魔道の魅力はなんとも強烈で一旦はまるとなかなか抜け出せない。マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』の当該項目では、悪魔という存在の、詩人の精神を刺激する側面をフィーチャしているが、大多数の向く&向かねばならない方向に背を向ける反逆の感覚は、裏側に若いナルシズムを潜めてルシファーのように振る舞い(なぜかみんな悪魔は美しい設定なんだな)、失われて堕落させられた名前を見出しては、自分だけが知る「神」としてこれに跪拝したり対等に付き合ったりするのは、なにも詩人だけの特権ではなくなってきたのが現代の様相みたいなので、現代ほど悪魔的な時代は無いんじゃないか ((((;゜Д゜)) というアリキタリなオチでもってこの記事を終わろう。