第1回 第1歌 I 〜VII

ヘルメス叢書の最終刊『闇よりおのずからほとばしる光』の既訳を参考にしつつ、『黄金の鼎』から解放されて(?)2008年末をわりと気ままに。
原題 La Lumière sortant par soi-même des Ténèbres は、ファーガソン・コレクションには1688年パリ刊行のものが収められているようだが、ベルナール・ロジェの序文では1666年に最初のラテン語版が刊行されたとされている。他の多くの錬金術文書にも増して『闇よりおのずからほとばしる光』の文献目録は錯綜しているが、ヘルメス叢書の後書きで有田忠郎氏は、「こうした矢継ぎ早の刊行は、17世紀末における錬金術文書への一般の需要を垣間見る小さな手がかりにはなるであろう」と述べている。また一方、先のベルナール・ロジェによる序文では、「デカルトの時代と商業主義の隆盛」のなかでのヘルメス哲学の問題が主題になっており、科学史の変遷を時代精神の側面からとらえるのみならず、現代人が錬金術文書に触れる意義を模索する上でも、示唆に富んだ内容になっている。

以下に紹介・訳出する第1歌、はやくも明らかなのは他の一般的な錬金術書のとる「達人から読者に与える奥義」という態度とは異なり、「ヘルメス学の識者よりご意見を乞う」形式をとっている点である。これはヘルメス思想が急速に後退してゆく時代精神の変遷を予見したものか、それともクラッセラームの巧妙な、なんらかの意図によるものなのか。

暗黒より自ずからきたる光明 マルク=アントニオ・クラッセラーム(オットー・タヒェニウス)作
第1歌
I
最初の声、全能の御言葉「ひかりあれ」とともに深い無の底から、
暗い混沌が塊をひしめかせながら現れた。
あまりに形がなかったために、これはとても神の御技とは思われず、
あたかも無秩序のいたずらかにみえた。
万物はそのうちで深い眠りにあり、元素たちも曖昧であった。
なんとなれば神授の精霊が、いまだそれらをへだて居らぬがゆえのことである。
II
かようなときにいったい誰がはからい得たものであろうか。
如何にしてかくも天と地と海がかろくかたちをなし、かくも広大にひろく拡がることを。
いったいにして何者が、解きえたものであろうか。
太陽と月とがその光と運行を身に帯び、そのもとで万物のすがたを
人間らがいかに眼の当たりにするかを。
万物がおのがじし有様をわがものとし、精霊によって命を吹き込まれ、
いまだ采配振られざる混沌の不浄より来たって、法によりて質と量を制定される
そのなりゆきを、いったい誰が解し得ようか。
III
嗚呼、汝。聖なるヘルメスのまねびに就く息子らよ。
汝の父祖の学問は、ただそなたにのみ、自然のありようを明した。
いかにして神の不滅の掌が、かたちなき混沌の塊から天と地を造りあげたか。
それはただ、そなただけが識ることである。なんとなれば
哲学の錬金薬液の造成と、神の万物創造の過程がまったく違わぬことを、
汝の偉大なる作業が鮮明にみせつけるからである。
IV
かように偉大なことを描き出すに、我が筆は貧弱すぎる。
私はこの学問の未熟者にすぎず、未だになんらの功もない。
汝らの明哲なる著述が、私に目指すべき真実の終局を感得させ、
私はこのイリアステルを識るにいたった。それは我らの必要とするすべてを内部に秘め、
この驚くべき混合物をつうじて汝らは、諸元素の彩をもたらすことを可能にした。
V
汝らの秘密のメルクリウスを私は識らぬものではない。それは
活ける、普遍の、天賦の精霊にほかならない。風を舞う蒸気のありさまをして
絶え間なく天より地へとふりそそぎ、そのどん欲な吸収をみせる腹を満たそうと励む。
そして不浄な硫黄のなかにやどって成長しつつ、揮発から不揮発へと、
その性質を変転させる。かくして自ら、根源的な流動質の形姿にかわりゆく。
VI
さらに私は識らぬものではない、卵を模した容器は玄冬にて封じられねば
肝心の煙霧を逃してしまうであろうことを。我らの愛児は、巧みな技と
山猫(リンクス)の眼でもってすばやく護られねば、産まれるやいなや直ちに
死するであろうことを。さもなくばかれは、人の身と同じように、
母胎にては不浄なる血潮にはぐくまれ、地上に産まれては乳に拠ってながらえる。
かくて己が体液で自身をたもつことがならぬよう、成り果てる。
VII
こうしたことのすべてを私は識っているとはいえ、読者よ、そこに証をたてるに
私は躊躇せざるを得ない。数多の誤謬がいつも私を悩ませる。けれども、
そなたがもし悋気よりもなお憐憫にこころ動かされるならば、私を押し留める
あらゆる疑念を払拭しては呉れまいか。もし幸いにもこの書のなかで、
汝の術の一切を確然と述べえたならば、私は汝に願う、私にこたえを与えて欲しい。
識るべきことに充分ならばいざ、為すべきをなせ、と。