第1回

久しぶりの更新でございますがシレッと再開。

さて、本家サイトのほうで長らく図像だけ紹介しておりました『哲学者の薔薇園』(←もう10年ちかく昔に書いた内容!?)でございますが、これより本文の紹介をしてゆきたいと思います。まあもうけっこういろんなところに引用がありますから、いまさら「薔薇園が日本語で読めるなんてっ」と喜んでもナカナカ頂けないかもしれませんが、お付き合いいただいて楽しんでいただければと。いうくらいで。

ええー、錬金術文書なんてものを読むてまえ、なんとか足早に「秘密」へと踏み込もう、てえと性急になるもんで、やたら期待するところがあって最初の「こころがまえ」的なところが冗長に感じてつまらないんですが、『薔薇園』は1550年(くらいだったかな?)と、錬金術文書のなかでもずいぶん古いもののひとつにしては、ウィットがきいていて、けっこう最初から面白いもの言いをしているように感じます。
う〜ん、ノートン師の説教がツマラナク(失礼!)長かったからかも。

詳しい書誌情報とかは後日にまたやります。

これより記されるは賢者の
薔薇園の書
いと篤くも編纂され
かつは単巻に纏められたるものなり

 賢者の術についての偉大なる学問より真実きわまる叡智を望む者ならば、このささやかな書物を入念に吟味するがよい。これを幾重にも読みかえすことで、汝の望むところは獲得されよう。汝、いにしえの哲学者らを継承する息子よ。ここより語られることに傾聴せよ。我はしうるかぎり声高に語ろう、そして人の身をとりまく様相の主たるところと、あまねく世界のあらゆる秘奥にまつわる究極の至宝を、汝へと開陳せんとしてこれを記すものである。おぼつかぬうわべの言辞を弄しはせぬ、むしろ真実いつわりなきところをこそ明らかに伝えよう。かく自然変成の教理と叡智を伝授するがゆえ、汝にあっては一意専心これに臨むべきである。かくしてこそ我は己じしんの眼に映し手に触れた真実の証を見せよう。焦る者は多い。だがとてつもない出資と辛苦の果てに諸君をうち拉ぎ、なんらの帰結も見出せぬような偽りの自画自賛に陥ることのなきよう、入門者にも熟達者にもこの神秘の教理が智解しうるよう平明に説くこととしよう。ゆえに何者であろうとも我に中傷の、不敬の言葉を向けてはならぬ。ここに引証されたいにしえの哲学者らの記述が、いかに理解困難で同意しかねるしろものであろうとも、その解しがたさと混迷は、いとも貴重なる術を求めた諸々の術者が皆、その目的から裏切られたり脅かされたりしていたからである。我は汝の目前に真実の実験を記そう。我らが切に求めるところを明白平明に理解しうるよう、これによりよく適う諸哲学者の見解を付す。
 まず我らが留意せねばならぬのは、すべて自然を超えるところへはたらきかける者は、ありうべからざる方法を採る詐術者であるということである。ひとはひとからしか産まれず、獣は獣からしか産まれない。同類は同類からのみ発するのであって、自身なにがしかを持たぬ者が他人のものを随意にすることはできない。誰しも財産をうしなうべきではない、とも言えよう。財産を失するべく欺かれ赤貧に陥れられた者は、また他の者をも同様にしてやろうと心血注ぎ企てる。しかし予の見解では、自然の始原や営為を知ることよりほかに、なんらかの莫大な利益を得る欲望などをもってこの技芸に深く立ち入ってはならない。また、只にひとつのものしか必要とはせず、ゆえに莫大な費用などは要求されないことなども知るべきである。それはただひとつの石にすぎず、ひとつの医薬、ひとつの容器、ひとつの型、ひとつの性質であり、またこうしたものが真の術であると知られなければならない。さらに哲学者自身が直接に観じえたものでなければ、かような色彩の変化やそこに必要とされるものを説き明かそうと、苦心して考究することはけっして無かったはずなのである。
 故にふたたび云おう、自然を超えたところへはたらきかける全ては欺き欺かれる者である。我らの石は動物界・植物界・鉱物界に通底する性のものであるがゆえ、汝は自然のなかにあってのみ研鑽を傾けるがよい。自然の作業にあっては、ひとつの理論に心を決めて、これやあれやのことどもに手を出さぬがよい。我らが術にはさまざまに異なる呼び名があるけれども、たくさんの事物からではなく、かならず唯ひとつのことから実現されるのである。内なるものに由来して自然に存在するものは自身の性質からそうなるのであり、ゆえに能動因と受動因がひとつに結ぶことが不可欠である。性質に於いても総体に於いても、また異なる種族に於いても同様である。水銀によって男性から女性が分かたれたように、それらがひとつの種として安ろうていても、それらは疑いようもない相違をそれぞれに持っている。それは質料と形相が異なるのとおなじであって、質料は作用を受けるが形相は質料が自身に似るように働きかけて造る。かくて質料は、女性が男性に、歪みが秩序にそうするように、おのずと形相を欲する。そのようにして肉体は惜しげなく精神を抱擁し、完全化に向かわしめるのである。このように自然の根幹を知ることで、汝は汝の作業をよりよくすることができるであろう。我らが石については、他の方法で説明することはできず、他の名前で定義することもできず、既に過去に瞭然のものとされている。すなわち、我らが石は四元素より構成され、富めるも貧しきもそれを持ち、如何なる場所にも見つけることができ、なにものにも擬えられ、肉、霊、魂より組成され、完全化の最終段階まで性質から性質へと変化するものである。
 哲学者らはいう。我らが石はひとつのものより成る。真実、術の全体は我らの水によって完遂されるが、それは水があらゆる金属種の種(スペルム)であって、論証されたところによれば、あらゆる金属はそれへと分解還元されるのである。
 おなじく、金属の塩は哲学者の石であり、我らの石は金や銀に凝結した水であり、火に抗し、同種に構成された水に溶ける。故に、それらの始原の物質、いわば活ける水銀への物質還元は、凝結した物質の分解変換に他ならない。こうした物質の施錠をひらくのは、ある性の、べつの性質への進注である。
 これらのことについて哲学者らは、以下のように記してきた。太陽は、活ける水銀の稔りに他ならない。水銀には地と水の二つの受動的な元素が優勢であるが、能動的な風と火の元素に活力があるのは、それらがただ、ありうべき消化作用と理想的な煎出にしたがって、清浄な水銀へと働きかけるだけのことから力を授かっているのであり、かくして金は造出されるのである。このように金には四つの元素が内在し、これらは等しい割合で適合しあい、ここに熟した能動的な硫黄が存在する。我らの術は、熟した金へと自然がおこなう水銀の供給を利用して、自然を補完するのである。この内部は、よく消化された熟した硫黄であるが、これは自然の営為による性質的なものである。

 哲学者にあらずして斯道の智慧へと参入する者は、その愚かさを突きつけられよう。なんとなればこの学問は、哲学者らの極めたる秘技であるゆえにこそ。(アルノー

 神のちからの内に此の術は保持されており、俗悪な人物の敵でもある。(セニオル)

 貧しく貪欲なる者どもにこの術は必要ではない、むしろそうした者どもに相対する者にこそ必要となるものである。(ゲベル)

 貧しき者が哲学者になるのは不可能である。(『政治論』二巻 アリストテレスの言説)