第2回

つづき。
わりとはやく本格的な錬金術へと話が入っていきますが、ちょっとあまり聞いたことのない「ふたつの方法」から始まります。ひとつめの「万法」と訳したのは原文ではUniversalとされ、「個法」としたのはParticularと云われています。それぞれについて、ここではあまり詳しく書いてはいませんが、いわゆる「小錬金法」と「大錬金法」のことでしょうか。ちょっとちがうような気もします。
ものの話にはよく「一瞬にして金属を金に変える」大錬金術師が登場して語り手たる学徒を震撼させたりします。こういうのは実験室でネクラく行われる術とは違う、なにやら一瞬の魔術めいたものですが、「万法」はこういうのを連想させます。

 賢者らの言説によれば、斯道には万法と個法のふたつの方途が存する。万法は、容易だが類い希であり、これは純なる自然の始源からもたらされ、種子がもつ蘇りの力がまたたくまに、しかも安定した、水銀の固着をもたらす。正しく設えられたいかなる金属をも染色し、真の金や金となるのである。
 だが、第二の途である個法は、辛く艱難を要する。留意せよ、万法の錬金術が自然のちからに依りながら人為のものでもあるとはいえ、これは個法よりもなお自然に任せる部分が大きい。真の錬金術における自然は、いかなる異質のものを受けつけることはなく、十全の結合と適合によって能動因が受動因とともになるからこそ、ここに自然が働きかけるのである。だが、やすらう自然は、みずから営むのみである。

 火に触れず、火もまたそれに触れぬ我らの石。そこより我らの水銀が生起する。(プラトン

 錬金術の技によっては、それに従事する者に三種のちがいがある。錬金術師(アルケミスト)、胡散臭い輩(ラウチミスト)、涕涙の者(ラクリミスト)である。なにくれと用いようとする者の誰しもが斯術に参与しうるわけではないが、それは只唯一の容器であり、ひとつの物質は他のものには入らないからである。

 これこれを用い、かくかくを為すべし、さすれば汝はこれをば得る云々、あらゆる哲学者は斯様なるところに従うものなり。(グラティアヌス)

 哲学者らが先ず記す「何々を用いよ」という言葉は、この故に多くの過誤を生じさせてきた。それゆえ、先ず始めの作業は、石の物質を溶解することであり、それは、卑俗の水銀ではない。

 哲学者達の言説を字義どおりに解釈する愚か者どもは決して真実を見出せず、これを偽りの学問であると結論してしまう。というのも、このような者どもがなにを試みようとも得られるものなどはなにもないからである。かくして自暴自棄に陥り、この学問を非難してそれを語る書物を誹る。こうした者どもにこの学問がもたらすところは露ほどであるが、自然の秘奥に関するわれらの学問に無礼な短慮ほどの敵は無い。以下の詩句のとおりである。
 才覚こころもとなき者共にとりて、この石は価値すくなきものとみなさる
 されども学べる賢者らは、そこより莫大な利益を得る。(アルノー

 識れ。神は、この偉大な秘奥のあつかう石を高値で取引されるようには定めなかった。それは路傍にうち棄てられていようし、貧しき者も富める者にも与えられる。理論と智識によりてそれは、万人にもたらされるのである。活ける銀は石ではない。これについてコンスタンティヌスは「溶融性であるがゆえに、それは石ではない」と言っている。(アルフィディウス)

 活ける銀は哲学者のいうところの火である。曰く「活ける銀は、火よりも肉体を焦がす火であると識れ」と。

このように『薔薇園』は、地の文と、高名な錬金術文書からの引用が行ったり来たりします。テクストによっては「どこまでが地の文か・引用か」が異なっていたりします。まあ、いわんとするところに大差はないので、こういうところの目クジラは寝かせておくことにします。

有名な「3つの泉の図」はこの直後に来ます。