第3回


われらは源初にして金属種の性の源なりて
われらの元に始めらる術は至高のティンクトゥラをつくりあげる。
わたしのような泉や水は他のどこにもありはせぬ、
わたしは富める者も貧しき者も隔てなく癒し助くるものの、
有害なる毒素に充ちみちてをる。

 銀扇草(ルナリア)の精、生命の水(アクア・ウィタエ)、第五精髄、酒精、植物の水銀、これらはみな同一のものを示す。銀扇草(ルナリア)の精は一般的な葡萄酒からつくられるが、数少ない我らの学徒にのみ伝わるものであり、これによって我々の溶解液は調合され、我々の可飲金は調合され、その手段となり、それなしに目的がかなうことはない。
 不完全なる肉体(物質)は原初の物質へと改変されるのだが、このような水はさらにわれわれの水と結合して、ただひとつの清く澄んだ水を作りあげ、これがあらゆるものを浄化しつつ、尚いまだそのなかにあらゆる必要物を含んで剰りある。そしてこの、われらの奥義が作用し使用する水は、その価値高くも低くもあるもので、それは無知な学説にあるごとく卑俗の溶剤を使うことなくして物質を溶解し、肉体を雲霞の水へと溶かす。まことの哲学の溶解液は、肉体を自身のよりきたる原初の水へと還すのである。かくして、水は肉体を灰燼に帰せしめるのである。けれども、錬金の術とは聖霊の賜物の云いであることを知るがよい、また識るべし、我らは今この時代にあってローマ宮廷に偉大なる聖医、練達の術師アルノー・ド・ヴィラノヴァを同時代人としており、彼は小さな鏃(やじりwedge)程の黄金をつくり、それが彼をいかなる審理も甘んじて受けねばならぬところへ追いつめた(wedge)のである。

 錬金術師は留意すべきである。源初の物質へと還元せずに、金属の種が変質させられることはない。かくしてこそ、金属種はそれまでと異なった種に錬成されるのである。ひとつのものの腐敗が別のものの発生となるとはこのことであり、これは人工物にも自然物にもあてはまる。術とは自然を模倣するものであり、さる状況のもとには、補完し改善するのである。これは、あたかも医師の努めに自然が救われるようなものである。(アルノー

 ゆえに自然を巧く活かすべし。自然はみずからの内なる性質からのみ改善されうる。粉末にしても何にしても、そこに異質のものを投入してはならない。自然ならざる性質のものが石を完全化することはなく、それに由来しないものがここに入り込むこともないのである。異なる性質のものがここに加えられたとしても、只ひたすらに堕するのみで、思ったものは手に入らない。(『鏡』)