第1回 序文

1年半くらいブログを放置してしまいましたが、最近進めている作者不詳の錬金術文書『自然の王冠』をupします。『薔薇園』も頓挫しているのでどこまで続くか分かりませんが…。

『自然の王冠』は、バルヒューゼン Barchusen の編んだ論集『化学の元素 Elementa chemicae』に収められた有名な連作図版を含む文書です。
ファブリキウス『錬金術の世界』の巻末の紹介では

「バルヒューゼンはユトレヒト大学の巧妙な科学者で、数多くの著作はこの人物が薬剤師から新しい化学の分野、化学の教授へと成長したことを明らかにしている。バルヒューゼンが著作の序文で告げるところによれば、連作図版はシュワーベンのベネディクト会修道院にあった手書きの文書から写し取ったもので、これらの絵は一目見て哲学者の石の製法をあらわしたもののように思えた、という。本書の著者は10年にわたって調査を続け、1968年にニューヨークのシドニイ・M・エデルシュタイン協会の図書館で、この「手書きの文書」を見つけ出した。67点の水彩画から構成されており、書名は『自然の王冠、あるいは無名の作者によって67点の神秘的な図により明らかにされた至高の医療の教え』となっていた。……17世紀初頭のものだと考えられる」

『化学の元素』所収『自然の王冠Crowning of Nature』本文の英文テクストはこちらにあります。
 →http://www.levity.com/alchemy/crowning.html
尚、上のリンク先のテクストにつけられた図版はオリジナルのものからMcLean師が選定、着色したものですから、『化学の元素』に収められたものとは異なっています(テーマは同じです)。錬金術文書の図版は、色彩に重要な意義があるので、理解の点では極めて参考になるのですが、原色ばかり使われますから印象としてすこぶる明る気で可愛らし気のものになっています。
自然の王冠、Crowning of Nature についての書籍といえばまず Magnum Opus Hermetic Sourceworksのものしか流通していない様子ですが、これはMcLean師のサイトの内容と同じと予想されます。


 神の意志と勅命によって下される天界の作用は、上から降りて星々の性質と要素へと混入する。我らの種子の造出のはじめもまた、このような仕儀のもとにはじまる。汝はこれを、如何なる可燃性のものからも得ることはできないが、それがそれと偏見もなしに争うからである。だがこれは、造物主が金属種の生成のためだけに命を下した金属の根より発するものとして知られている。汝はこれを、その性質がそれを造出するところの、しかるべき性質の種子のなかにこそ探さねばならない。ベルナルド・トレヴィザンの書物は、魂の興る次第について記された、真実ただしく唯一のものである。地、水、風、火の四元素は、魂をうみだすその刻を迎えるまで、充分に制され調えられねばならない。われわれは四大元素を七惑星の一致によって集める。われらの術は物質を凝固させ溶解させ、霊気を定着させることに尽きる。万物に先行する神は、ただひとり原初の物質として唯一の実体を創造した。四元素はそこから造出され、神はこれより万物を創造した。われらの石もまた四大元素の精髄であって、諸元素から分離され、第五精髄へと還元されねばならぬ、原初の物質の実体から抽出されるべきものなのである。
 神に造られた自然は人為の技術とともにはたらき、そのようにして上述の諸元素は完全に改変され、しかるのちに結合術が施される。それらは第五としての、輝ける第五精髄、あるいは第五元素とよばれる霊気へと還元されて、神に創造された唯一のもののなかにみいだされる、輝かしき復活体に顕現する。金属種の霊、魂、肉の三位が存するところには、かならず水銀、硫黄、塩基があり、ここにこそ完全なる金属の身体が形成される。われわれはこのようなものを、太陽がとこしえにその眼を据えるいとも完全なる被造物から採取する。聖ダンスタンの著作『隠秘哲学』などには、天使の食餌、天来の聖体拝領、命の糧、疑いなく神の元に次ぐもの、真のアルコーダンあるいは延命剤、などと記されており、こうしたものを用いて死ぬ者があろうかという疑問や、それをもつ者がなぜ生きることを望むのかについての考えにさしたる注意も向けない者は、これら輝ける永遠性の顕現におのれの通俗的な眼を暴かれるのである。我らの石は二、三、四そして五より成る。五、それは第五元素であり、四は四大元素である。また三は遍く自然物の三原理、二は二重の水銀を象徴し、一は万物の根本原理である。それは世の創造のときより、清らかに清浄につくられ、神の勅命がそれを在らしめたところのものである。金よりもさらに高貴に創造されたものが存在し、真実がそれを見出すところに我らはそれを探し求めねばならない。それはあまりにも自然(性質)のなかに秘められたものであるので、作業のすべてを見るよりほかに、ひとはそれを目の当たりにすることはかなわない。われらの原初の父アダムは内奥深くその精神において、天使をかたちづくる物質因で神の似姿に造られた。なるほど偉大な名知識をも擁する人間界では、神が地の泥や粘土や塵から人間を造ったとまことしやかに語り継いではきたがこれは誤りである。人間が創造されたのは精髄の物質からであり、地と呼ばれこそすれ卑俗の土のことではない。
 原初のアダムは後のそれと比して懸け離れた肉体をもっていたのであり、純潔のもとにあったことを熟考すれば違いはかなりのものである。われわれは彼にすべからく賛嘆し、これを目の当たりにして戦かぬわけにはいかない。それは天使を目の当たりにするに等しく、かような肉体をこそ、神聖なる救い主が天より彼にもたらしたのである。そうした肉体とともに我々は再生し、かような肉体にこそ、肉と血とともに、我々の魂が授けられるのである。そうでなければ、人間は天使と違うことが無かったであろう。というのも、かような肉や血は聖霊によって我らに与えられるのであり、それが再生である。知るもの僅かなこの神秘についてはまだ語るべきことがあるが、斯術とともに恵まれて生きる者はその造物主を賛美することになろう。
 ミクロコスム、あるいは小宇宙としての人間、霊気を受けた星辰より来たり、その偉大な世界としての肉体より来たり、その魂はすなわち神につながり、ゆえにここには神聖なる三位一体の知覚が在る。さて、無から如何にして偉大なる世界が造出されたかについて語ろう。そのときそこには時間も空間も存せず、神は賢者らが質料、いとも遠きものと呼ぶところの、見えざる混沌を創造した。ここから彼はある抽出物を、あるいは混沌の第二因を造った。それは眼に見え触れ得るものであり、かつそのようなものであったため、賢者らが思弁によらずとも識るところである。そのなかに、あらゆる種子そして、それまでに造られた上より下に至るすべての被造物の形相が秘められており秘められてあった。このようなものから神は世に四大元素をわけ、天のものから地のものまで、天使、太陽、月、そして星辰にいたる万物を創造した。この混沌へと向けられた賢者の智と術は、かれらにあらゆる叡智をもたらし、かくて神に並んだ。汝これを探し、万智を見出すべし、まさに天使的叡智がこれによって達成さる。猜疑心は罰として世に与えられたものである。己じしんの探すところを知らぬ者は、見出すべきところをも失うであろう。

錬金術文書では見慣れない、聖ダンスタンという名前が出てきますが、ちょっと調べるとなかなか面白い人のようです。蹄鉄などをしていた経験科学者のような側面があるようです。
中盤〜後半の、アダムについての熱っぽい語りはナルホド頷かされるものがあります。とうとつですが『風の谷のナウシカ』の最終巻あたりに、汚染されきった世界に適応してしまった人類がもはや清浄な世界では生きられない…といった衝撃的な展開がありましたが、そういうのを思い出しました。
第5元素としての清浄無垢をめざすこと、あるいはその目標を据えること、これは確かに錬金術の根本ですね。