第2回 『象魚』について

短編集『象魚』は、後の逆柱作品にはめずらしく、生活感というか「夢を見る前提の境涯」が描かれている感覚がある。実際に「ビンボー」かどうかは別にして、ふらりと散歩に出掛けて海辺の町や街を菓子パンなぞ食べながら歩いたり、うらさびれた食堂で気軽にお好み焼きなどを食べてみたりビールを飲んだり、釣堀で虚実のあわいを感じたりする生活がある。寝ているあいだにみる夢の世界と、現実の世界の境界が、きわめて接近している感覚とでもいえばいいだろうか。
しかし、これらは、決して本当の意味で「気軽」ではないし、よく引き合いに出されるつげ義春の作品のように迫りくる激しい生活感や絶望でもない。淡々とつづく日常の風景そのものが持っている魔力を受信するにあたっての、前提となるこころのもちよう、である。
この後かなり長い間にわたって封じられがちになるエロ味は、近年の『赤タイツ男』になって漸く全開気味になってきたが、この『象魚』のなかでは多少のフラストのように現れてはすぐに消え去る。
後に「合法的ドラッグ」のような評され方をする逆柱作品群ではあるが、『象魚』に於ける生活感、ここから受け取られてゆく超現実の、あまりの生々しさやリアルさは、ドラッグとか、そういう鋭く強い刺激としての感受ではない、もっとあたりまえの世界に根ざしている。そして何より、最近の逆柱いみりとは比較にならない不穏な妖しさが漲っている。モチーフは変わらない作家なので遡るほど原義が強まるのか。

□骨 後の作品では作者をような一人称の登場はきわめて珍しい。「理科の先生の娘」はこの後ずと逆柱作品に現れる女の子の原型のような感じ。

□人参 逆柱作品のオノマトペ、音声詩想的の、定型口調でエッチな隠語を連発する「人参」が面白い。しかし、こんなモノを町中に持ち歩かねばならないという微妙な不愉快さは、浅い悪夢の感覚にきわめて近い。ぷくぷくとふくれる中国人風の父親は後に『ケキャール社顛末記』のネコ社長の夢幻のなかで、道路の下の住居にすむ「宇宙の王子」のお向かいさん「とっつあん」につながる。また人参を受け取る商人として「怪人うさぎ」が登場する。

マナティ 水路のある街やフォルマリン工場など、貴重なイメージが登場する。奇妙な文語体で話す男の子や女の子も、この作品以降には出てこないキャラクター。広い屋敷で死んでいる巨大なマナティの印象は、「象魚」「窓の外はドブ溜め」につながり、無尽蔵の才能がいまはまだ死の状態にあるようだ。

□金魚 初期の「怪人うさぎ」がカオティックな性格をあらわにする。このモラルを超越した怪人は、後々にも現実的なしがらみを軽々と超えてしまう役目を果たすジェスターであるが、しかし卑屈な道化ではなく、世慣れた詐欺師のような雰囲気を身にまとった存在である。上「マナティ」などにある、大きく暗いものを鋭く細い針でつきやぶるような可能性の体現ともいえよう。

□耳・影・隕石 幼児体験的な短編。

□鯉(夏の日の鯉) 雨の降る夏休みのある日、誰も来ない飼育係の仕事に来た女の子が巨大な金鯉を救う?ため奮闘する微エロ。

□動物園 後に炸裂する奇妙な動物たちが満載。

四コマ漫画 花くまゆうさくしりあがり寿のような4コマ。今となっては貴重か。

□象魚 表題作。「骨」に似た海辺の町を1人称の男が散歩し、子供の頃にみた幻に出会う。大きな魚、妖しい街、散歩、幼年時代と、ここまでの集大成の風情がある。いまだ巨魚は死体であるが、その価値は一般的なものとなり、幼年期という霊感の海へのつながりを示すものではあるが、男はずいぶん冷静に巨魚の死=象魚丼に向かい合うようになっている。

□血痰処理(女工 果てしない大工場で人々があたかもゴミ溜のごとくに埋もれている実存を思わせるイメージは、逆柱作品の根幹を支えるものである。主人公の女の子は後に『ケキャール社』や『はたらくカッパ』の主役にもなってゆく存在で、ここでは置かれた状況のなかで多少ふてくされながらもうまくやっていこうとしている様子である。これは後作でも変わらない、逆柱作品のわかりやすい、読者をつなぐ物語性つよい、珍しい側面である。しかしこの後『ネコカッパ』所収「おつかい」でも要約されているような巨大工場の、うごめく機械類の圧倒的な存在感、そして駆動力そのものには、読者をしてここに溺れた方がむしろ心地よさを感じせしめる奥行きある闇が構成されている。これについては、モードやテクスチャの追求のように読解することも可能かも知れないが、しかしそうした表層的「モチーフの習作」と捉えるにはあまりにも、この「工場」は、よく鍛えられた肉体のように、ぎっしり内実の詰まった、大聖堂のようなマッスのある空間である。また、後半、「のどから毛が生えて」幻覚のさなか、アジア的マーケットの風景を「毛を持ったトカゲ」が疾駆してゆく。この「遍く世界への偏在感覚」はきわめて重要で、後に代表作「道楽者の海」「赤タイツ男」など他の多くの作品で、「風景のなかを一定の意識が駆けめぐってゆく」典型例である。精神的にも肉体的にも、かように風景を彷徨する意識がみごと痛切に描かれてることは、文芸にも漫画にも希なことである。

□窓の外はドブ溜め 住居のすぐ外で鯨のような巨魚が死んでいるという悪夢的作品。

□うおのめ 女の子と怪人うさぎがうおのめを取り合ったり、にきびを潰したりする身体感覚。

□天気よかった日 怪人うさぎとなった1人称が散歩に出る。

□清称帯我到医院去 幾つかのイラスト集。擬似的な中国語で看板に関心が向き始める。逆柱作品といえば広大無辺の質量を誇るような街と、それを埋め尽くし興味尽きない看板が印象的だが、この短編集『象魚』では、あまり凝った看板は登場しない。