サミラ・マフマルバフ『りんご』1998 イラン 86分

かつて日本での上映にそそくさと足を運んだ映画、どうしても記憶に残る映像に、近年入手が難しいながらもなんとか探してやっと観られた。オートロックが故障して、早朝にマンションから閉め出されてた翌日にはふさわしい映画かもしれない(それはむしろ、ブニュエル『皆殺しの天使』かな、あ、逆か?)

なんともすばらしい、率直に感動した。
盲目の母親が林檎を握る瞬間、終幕の絵一枚に打ち震えた。

我々が観ているのは紛れもない映画なのだが、全てが現実でもあり、1カットとして絵画的でない映像はない。すべてが写実的で、かつ叙情にあふれている。

遠いイラン、テヘランの界隈に導かれて目の当たりにする映像と現実は、たしかに、「父親による娘二人の11年にもわたる監禁」という陰惨な現実かもしれない。娘二人は、まともに会話もできぬ、歩きかたもなんだかおかしい。施錠された暗い家屋の奥には、ほとんど怪物のような、全身ヴェールで覆った盲目の母親がののしりの呟きをうめく。娘をもってしまった旧社会の父親は、みずから善良たらんとして家族を守り、それゆえに世間と社会の論理にひたすら嘆き悲しむしかない。

現実というものはえてしてそのように多い被さる重圧のようなものにはちがいあるまい、しかし、いったん外界に解き放たれた少女たちとともに、路地で、商店で、街で、公園で、我々はすっかり童心に戻って、鑑賞者は、ふたりといっしょに遊びはじめるのだ。

そのファンタジー性といったら、もうどんな美麗なCG世界なぞも比較にならないだろう。

現実とは、映画とは、なんという陰惨で甘美な光にあふれた世界なのだろうか、そんなことを確認させてくれる。

だとすれば、そう、11年の監禁を強いられていたのは、なんたることか、我々の方なのではないか。

そしてこの映画は、その重圧のような現実を見事に昇華してみせる錬金術の秘密を開示してくれているのである。現実を、生きるに値するものとして昇華させるような体験をこそ、錬金術と呼ぶべきではないのか。

なんたることか! あたたまる心が掻きむしられ、夢幻と現世の間に存在せざるを得ぬみずからそのものに、生命が取り戻される、素晴らしい傑作。