テキスト・エディタ

ながいことLightWayTextを愛用してきたが、Leopardに移行してからなんだかおかしなことがいろいろ出てきた。訳した文章とか使った語彙をマークすべくあちこちの文字をけっこういろんな色にしておくのだが、コンテクスト・メニューがうまく働かない。印刷チェックの段になってダイアログを出すと、ページ指定が1〜32000オーバーと出ており、集成しようとすると「32000以下にしてください」のアラートが出てこれが入力を邪魔してくる…訂正したくてもできねえよ! という状態。こういう不具合には実は随分前から悩まされていて、だましだまし使いながらアップデートはしないのかなとちょくちょくバージョンのチェックはしていたが2007年の4.1.7から変化なし……どうもiTextという新しいアプリケーションの方に注力されている様子なので、もはやLightWayTextの新verは出ないだろう。PPCアプリで各部も前時代的だし…そろそろお役御免なのかな。

これをなぜ買ったか思い出してみると、手元にあるワープロやエディタから、あちこちwebで拾って試してみたものまで、どれもこれも「文章をスクロールさせると、1行ずつ上に行くのでなく、ガクッと数行分上がる」のがどうしてもイヤだったからだった。どうでもいいことのようだが、集中しているときにウィンドウ下部に来て「あと1行下を」というときに一瞬でも「?」となるのは、かなりイラつかされる。なぜ世のワープロ、エディタは「1行ずつスクロール」を標準にしないのだろう? そんなに技術的な垣根の高いことなのだろうか? というかガックリ数行分スクロールさせる必要性が理解できないんだが…なんでだ?

新環境になってからのマルチタッチも気持ちよく使いたいので、ここしばらくはCocoaアプリで作り直されている「iTextExpress」と「iTextPro'09試用」を使ってみている。残念なことにこれもガクッとスクロールしかできない。反対に、トラックパッドでの指スクロールはLightWayよりずっとスムーズになった皮肉。うーむ、100%満足のいくエディタにはなかなか出会えないものですな。

第5回

ここから突然、アラビアの師匠のプラクティカルな説明が引用されます。

ゲベル 真実の探求より
 われわれは、秘められた自然力とその構成素をあつかうこの書物のなかで、完全に確固たる実体を探求しこれにいたる経験から熟考を重ねてきた。われらの到達したものは、我々の医薬をつくるものにほかならず、物質変成に臨んでは以下のような特質をひめている。
 第一に、それは身の内にいとも精妙な《地》をもち、火に強く、その強力な湿性でなにものをも固着させようとする。
 第二に、それは《風》の湿気と《火》の湿気を統合した状態で秘めているので、片方が揮発性であればもう一方も同様である。この湿性は他のあらゆる湿気にまさるため、そこに永久にわかたれることのない《地》すなわち蒸散しない結合が不足している限りは、永遠に火の中心にやすろうて充分な遺灰の濃度に到達する。
 第三に、自然の湿性がもつ傾向は以下のようなものである。じしんの均質性の恩恵をうけて構成要素のあらゆる差異を内包し、それらすべてを転換することで統合された《地》をもつが、それは、すべての均質性のさなかに不可分にむすぶ紐帯が徳たかくまざりあうからである。また、調合の最終段階のあとには能く溶融する。
 第四に、この均質性はかくも精髄の純粋のものであり、あらゆる可燃物や燃え尽きた物質から人為的に浄化されており、これに結合されたあらゆるものは燃やされることなく、燃焼から護られる。
 第五に、それは澄みきって輝く染色素をうちに秘めており、白であり赤であり、汚れ無き不燃性の、安定した確固たるものであり、火によっても変化させられず、硫黄などのつよい浸食性によって腐食させられることもない。
 第六に、最終的な到達物と完全に融合した構成要素は、このように精妙で希薄な物質であるので、最終的な局面としての煎出のあとでは水のようにいとも希薄に融解するものとなり、最終的な物質の置換にむかって深い浸透をする。火の焼き付きに対抗する分離しがたき堅固さをもって、最盛期には霊的に自身の性質へと肉体を収縮させながらも、仕上げにおけるいかなる融合でも溶解でも、類としての近親性ゆえに蒸気と自然に固く結合するのである。

この感じがまだしばらく続きます。……

孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように

仏陀ブッダの感興のことば』第十四章「憎しみ」
イノセンス引用句集成
・おそらくwebで唯一、セーフハウスのオルゴールが試聴できるところ(かなり下の方の「川井憲次 RIVER OF CRYSTALS 映画「イノセンス」より」のところ )

・『バラモン教典/原始仏典

第4回

 これについては以下のことが汝の理解を促すであろう。術者は煎出に臨んで類似物質を用い、これらを精妙に導いてすべてが水へと変わるようにせねばならず、さもなければ術を始めることはかなわない。探求者たちが無駄に疲弊することのなきよう、貴重な秘奥を明かそう。よく密閉された容器中の硫黄を燃焼からまもる活ける水銀が、只にひとつのものである限りは、自然変成力というものは、活ける水銀と硫黄の煎出に他ならない。かくして、活ける水銀は消滅することなく、硫黄もまた燃え尽きることはない。つまり、活ける水銀はわれらの清い水なのであり、たとえば卑俗の水のなかになにものが溶解していようとも、強い火の熱がこの水を蒸発させなければ、ここに溶けているものは決して焼尽されることはない。この際にもし水が渇ききってしまえば容器中のものは燃えてしまうだろう。容器をかたく閉じるべしと哲学者らが、命じてきたのはこのためであるが、浄められたる我らの水が吹き出したりせずに、それが容器中のものを燃焼からまもり、なおかつそれらとともに内包された水がそれらを燃やそうとする火を妨げ、かくしてそれらのものは全うされて造出されるのである。さらに炎が強いほどに、より多くが深奥の部位へと隠され、火の熱に侵されることがなくなるのである。水はその胎にそれらを受容し、それらを炎から護るのである。だが、斯術に従ずるあらゆる学徒には、まず穏やかな火をもちいて水と火のあいだに耐性をつくりあげることを勧める。そうすれば汝は、いかなる上昇も生じることなく水を固定させることができるであろうし、かくして汝は火の程度に心をくだくこともなく、霊と肉がひとつとなるまで、耐性によって火を統御しやすくなり、組織的な物質を統合し、統合的なものを組織化しえるであろう。だからこそ水は、白と赤を現出さすものなのである。死も蘇生もつかさどるのはまさに水である。そして燃焼させるのも熱くするのもまた、水である。また水こそが、溶解させ凝結させる。水は腐敗をもたらし、しかるのちに新しき相反するものを生じさせる。ゆえにわが息子よ、私は汝に秘奥を授けよう、あらゆる汝の艱難辛苦は、水の煎出にむけよ。そこから結実を望もうとも倦むことなかれ、他の無益な物質に眼を向けることなかれ、ただ水のみである。この水を少しずつ煮出して腐食させれば、完全な色彩がそこにあらわれる。そして初めは、その花や葉を燃やさぬよう充分注意せよ。汝の作業をはやく進行させようと焦ってはいけない、そして忘れずに、内部のものが飛び去ることがないよう、扉をかたく閉じよ。かくして神は、汝がその望むところに到達するを許し給う。自然は段階を経てその営みを執行するのだから、汝もまたそのように為さねばならない。さよう、むしろ汝の心を、自然に従わせよ。そして自然にしたがって、地の胎内に再生する肉体を観ずるがよい。幻想などでなく、まことの観想から感得せよ。惨きさまもまた愉悦なりても、煎出にあらわれる色彩をそのように観じよ。

そこから万物が生じるところの、風の凝固。煙霧の凝集。水と地がつくる混沌、粘着性物質、メルクリウス。風の嫡子としての硫黄について、これはアタランテ象徴1の語るところのもうちょっと「化学的」な記述のしかたか。いやいやどうしてメディテーションを要するくだり、「ボヨヨ〜ン」と回想シーンにでも入るような無意識うんぬんの示唆でもあるだろう。なんとも内密で気分のよい「色彩」の変転がみえるのだろうなあ。

第3回


われらは源初にして金属種の性の源なりて
われらの元に始めらる術は至高のティンクトゥラをつくりあげる。
わたしのような泉や水は他のどこにもありはせぬ、
わたしは富める者も貧しき者も隔てなく癒し助くるものの、
有害なる毒素に充ちみちてをる。

 銀扇草(ルナリア)の精、生命の水(アクア・ウィタエ)、第五精髄、酒精、植物の水銀、これらはみな同一のものを示す。銀扇草(ルナリア)の精は一般的な葡萄酒からつくられるが、数少ない我らの学徒にのみ伝わるものであり、これによって我々の溶解液は調合され、我々の可飲金は調合され、その手段となり、それなしに目的がかなうことはない。
 不完全なる肉体(物質)は原初の物質へと改変されるのだが、このような水はさらにわれわれの水と結合して、ただひとつの清く澄んだ水を作りあげ、これがあらゆるものを浄化しつつ、尚いまだそのなかにあらゆる必要物を含んで剰りある。そしてこの、われらの奥義が作用し使用する水は、その価値高くも低くもあるもので、それは無知な学説にあるごとく卑俗の溶剤を使うことなくして物質を溶解し、肉体を雲霞の水へと溶かす。まことの哲学の溶解液は、肉体を自身のよりきたる原初の水へと還すのである。かくして、水は肉体を灰燼に帰せしめるのである。けれども、錬金の術とは聖霊の賜物の云いであることを知るがよい、また識るべし、我らは今この時代にあってローマ宮廷に偉大なる聖医、練達の術師アルノー・ド・ヴィラノヴァを同時代人としており、彼は小さな鏃(やじりwedge)程の黄金をつくり、それが彼をいかなる審理も甘んじて受けねばならぬところへ追いつめた(wedge)のである。

 錬金術師は留意すべきである。源初の物質へと還元せずに、金属の種が変質させられることはない。かくしてこそ、金属種はそれまでと異なった種に錬成されるのである。ひとつのものの腐敗が別のものの発生となるとはこのことであり、これは人工物にも自然物にもあてはまる。術とは自然を模倣するものであり、さる状況のもとには、補完し改善するのである。これは、あたかも医師の努めに自然が救われるようなものである。(アルノー

 ゆえに自然を巧く活かすべし。自然はみずからの内なる性質からのみ改善されうる。粉末にしても何にしても、そこに異質のものを投入してはならない。自然ならざる性質のものが石を完全化することはなく、それに由来しないものがここに入り込むこともないのである。異なる性質のものがここに加えられたとしても、只ひたすらに堕するのみで、思ったものは手に入らない。(『鏡』)

第2回

つづき。
わりとはやく本格的な錬金術へと話が入っていきますが、ちょっとあまり聞いたことのない「ふたつの方法」から始まります。ひとつめの「万法」と訳したのは原文ではUniversalとされ、「個法」としたのはParticularと云われています。それぞれについて、ここではあまり詳しく書いてはいませんが、いわゆる「小錬金法」と「大錬金法」のことでしょうか。ちょっとちがうような気もします。
ものの話にはよく「一瞬にして金属を金に変える」大錬金術師が登場して語り手たる学徒を震撼させたりします。こういうのは実験室でネクラく行われる術とは違う、なにやら一瞬の魔術めいたものですが、「万法」はこういうのを連想させます。

 賢者らの言説によれば、斯道には万法と個法のふたつの方途が存する。万法は、容易だが類い希であり、これは純なる自然の始源からもたらされ、種子がもつ蘇りの力がまたたくまに、しかも安定した、水銀の固着をもたらす。正しく設えられたいかなる金属をも染色し、真の金や金となるのである。
 だが、第二の途である個法は、辛く艱難を要する。留意せよ、万法の錬金術が自然のちからに依りながら人為のものでもあるとはいえ、これは個法よりもなお自然に任せる部分が大きい。真の錬金術における自然は、いかなる異質のものを受けつけることはなく、十全の結合と適合によって能動因が受動因とともになるからこそ、ここに自然が働きかけるのである。だが、やすらう自然は、みずから営むのみである。

 火に触れず、火もまたそれに触れぬ我らの石。そこより我らの水銀が生起する。(プラトン

 錬金術の技によっては、それに従事する者に三種のちがいがある。錬金術師(アルケミスト)、胡散臭い輩(ラウチミスト)、涕涙の者(ラクリミスト)である。なにくれと用いようとする者の誰しもが斯術に参与しうるわけではないが、それは只唯一の容器であり、ひとつの物質は他のものには入らないからである。

 これこれを用い、かくかくを為すべし、さすれば汝はこれをば得る云々、あらゆる哲学者は斯様なるところに従うものなり。(グラティアヌス)

 哲学者らが先ず記す「何々を用いよ」という言葉は、この故に多くの過誤を生じさせてきた。それゆえ、先ず始めの作業は、石の物質を溶解することであり、それは、卑俗の水銀ではない。

 哲学者達の言説を字義どおりに解釈する愚か者どもは決して真実を見出せず、これを偽りの学問であると結論してしまう。というのも、このような者どもがなにを試みようとも得られるものなどはなにもないからである。かくして自暴自棄に陥り、この学問を非難してそれを語る書物を誹る。こうした者どもにこの学問がもたらすところは露ほどであるが、自然の秘奥に関するわれらの学問に無礼な短慮ほどの敵は無い。以下の詩句のとおりである。
 才覚こころもとなき者共にとりて、この石は価値すくなきものとみなさる
 されども学べる賢者らは、そこより莫大な利益を得る。(アルノー

 識れ。神は、この偉大な秘奥のあつかう石を高値で取引されるようには定めなかった。それは路傍にうち棄てられていようし、貧しき者も富める者にも与えられる。理論と智識によりてそれは、万人にもたらされるのである。活ける銀は石ではない。これについてコンスタンティヌスは「溶融性であるがゆえに、それは石ではない」と言っている。(アルフィディウス)

 活ける銀は哲学者のいうところの火である。曰く「活ける銀は、火よりも肉体を焦がす火であると識れ」と。

このように『薔薇園』は、地の文と、高名な錬金術文書からの引用が行ったり来たりします。テクストによっては「どこまでが地の文か・引用か」が異なっていたりします。まあ、いわんとするところに大差はないので、こういうところの目クジラは寝かせておくことにします。

有名な「3つの泉の図」はこの直後に来ます。

第1回

久しぶりの更新でございますがシレッと再開。

さて、本家サイトのほうで長らく図像だけ紹介しておりました『哲学者の薔薇園』(←もう10年ちかく昔に書いた内容!?)でございますが、これより本文の紹介をしてゆきたいと思います。まあもうけっこういろんなところに引用がありますから、いまさら「薔薇園が日本語で読めるなんてっ」と喜んでもナカナカ頂けないかもしれませんが、お付き合いいただいて楽しんでいただければと。いうくらいで。

ええー、錬金術文書なんてものを読むてまえ、なんとか足早に「秘密」へと踏み込もう、てえと性急になるもんで、やたら期待するところがあって最初の「こころがまえ」的なところが冗長に感じてつまらないんですが、『薔薇園』は1550年(くらいだったかな?)と、錬金術文書のなかでもずいぶん古いもののひとつにしては、ウィットがきいていて、けっこう最初から面白いもの言いをしているように感じます。
う〜ん、ノートン師の説教がツマラナク(失礼!)長かったからかも。

詳しい書誌情報とかは後日にまたやります。

これより記されるは賢者の
薔薇園の書
いと篤くも編纂され
かつは単巻に纏められたるものなり

 賢者の術についての偉大なる学問より真実きわまる叡智を望む者ならば、このささやかな書物を入念に吟味するがよい。これを幾重にも読みかえすことで、汝の望むところは獲得されよう。汝、いにしえの哲学者らを継承する息子よ。ここより語られることに傾聴せよ。我はしうるかぎり声高に語ろう、そして人の身をとりまく様相の主たるところと、あまねく世界のあらゆる秘奥にまつわる究極の至宝を、汝へと開陳せんとしてこれを記すものである。おぼつかぬうわべの言辞を弄しはせぬ、むしろ真実いつわりなきところをこそ明らかに伝えよう。かく自然変成の教理と叡智を伝授するがゆえ、汝にあっては一意専心これに臨むべきである。かくしてこそ我は己じしんの眼に映し手に触れた真実の証を見せよう。焦る者は多い。だがとてつもない出資と辛苦の果てに諸君をうち拉ぎ、なんらの帰結も見出せぬような偽りの自画自賛に陥ることのなきよう、入門者にも熟達者にもこの神秘の教理が智解しうるよう平明に説くこととしよう。ゆえに何者であろうとも我に中傷の、不敬の言葉を向けてはならぬ。ここに引証されたいにしえの哲学者らの記述が、いかに理解困難で同意しかねるしろものであろうとも、その解しがたさと混迷は、いとも貴重なる術を求めた諸々の術者が皆、その目的から裏切られたり脅かされたりしていたからである。我は汝の目前に真実の実験を記そう。我らが切に求めるところを明白平明に理解しうるよう、これによりよく適う諸哲学者の見解を付す。
 まず我らが留意せねばならぬのは、すべて自然を超えるところへはたらきかける者は、ありうべからざる方法を採る詐術者であるということである。ひとはひとからしか産まれず、獣は獣からしか産まれない。同類は同類からのみ発するのであって、自身なにがしかを持たぬ者が他人のものを随意にすることはできない。誰しも財産をうしなうべきではない、とも言えよう。財産を失するべく欺かれ赤貧に陥れられた者は、また他の者をも同様にしてやろうと心血注ぎ企てる。しかし予の見解では、自然の始原や営為を知ることよりほかに、なんらかの莫大な利益を得る欲望などをもってこの技芸に深く立ち入ってはならない。また、只にひとつのものしか必要とはせず、ゆえに莫大な費用などは要求されないことなども知るべきである。それはただひとつの石にすぎず、ひとつの医薬、ひとつの容器、ひとつの型、ひとつの性質であり、またこうしたものが真の術であると知られなければならない。さらに哲学者自身が直接に観じえたものでなければ、かような色彩の変化やそこに必要とされるものを説き明かそうと、苦心して考究することはけっして無かったはずなのである。
 故にふたたび云おう、自然を超えたところへはたらきかける全ては欺き欺かれる者である。我らの石は動物界・植物界・鉱物界に通底する性のものであるがゆえ、汝は自然のなかにあってのみ研鑽を傾けるがよい。自然の作業にあっては、ひとつの理論に心を決めて、これやあれやのことどもに手を出さぬがよい。我らが術にはさまざまに異なる呼び名があるけれども、たくさんの事物からではなく、かならず唯ひとつのことから実現されるのである。内なるものに由来して自然に存在するものは自身の性質からそうなるのであり、ゆえに能動因と受動因がひとつに結ぶことが不可欠である。性質に於いても総体に於いても、また異なる種族に於いても同様である。水銀によって男性から女性が分かたれたように、それらがひとつの種として安ろうていても、それらは疑いようもない相違をそれぞれに持っている。それは質料と形相が異なるのとおなじであって、質料は作用を受けるが形相は質料が自身に似るように働きかけて造る。かくて質料は、女性が男性に、歪みが秩序にそうするように、おのずと形相を欲する。そのようにして肉体は惜しげなく精神を抱擁し、完全化に向かわしめるのである。このように自然の根幹を知ることで、汝は汝の作業をよりよくすることができるであろう。我らが石については、他の方法で説明することはできず、他の名前で定義することもできず、既に過去に瞭然のものとされている。すなわち、我らが石は四元素より構成され、富めるも貧しきもそれを持ち、如何なる場所にも見つけることができ、なにものにも擬えられ、肉、霊、魂より組成され、完全化の最終段階まで性質から性質へと変化するものである。
 哲学者らはいう。我らが石はひとつのものより成る。真実、術の全体は我らの水によって完遂されるが、それは水があらゆる金属種の種(スペルム)であって、論証されたところによれば、あらゆる金属はそれへと分解還元されるのである。
 おなじく、金属の塩は哲学者の石であり、我らの石は金や銀に凝結した水であり、火に抗し、同種に構成された水に溶ける。故に、それらの始原の物質、いわば活ける水銀への物質還元は、凝結した物質の分解変換に他ならない。こうした物質の施錠をひらくのは、ある性の、べつの性質への進注である。
 これらのことについて哲学者らは、以下のように記してきた。太陽は、活ける水銀の稔りに他ならない。水銀には地と水の二つの受動的な元素が優勢であるが、能動的な風と火の元素に活力があるのは、それらがただ、ありうべき消化作用と理想的な煎出にしたがって、清浄な水銀へと働きかけるだけのことから力を授かっているのであり、かくして金は造出されるのである。このように金には四つの元素が内在し、これらは等しい割合で適合しあい、ここに熟した能動的な硫黄が存在する。我らの術は、熟した金へと自然がおこなう水銀の供給を利用して、自然を補完するのである。この内部は、よく消化された熟した硫黄であるが、これは自然の営為による性質的なものである。

 哲学者にあらずして斯道の智慧へと参入する者は、その愚かさを突きつけられよう。なんとなればこの学問は、哲学者らの極めたる秘技であるゆえにこそ。(アルノー

 神のちからの内に此の術は保持されており、俗悪な人物の敵でもある。(セニオル)

 貧しく貪欲なる者どもにこの術は必要ではない、むしろそうした者どもに相対する者にこそ必要となるものである。(ゲベル)

 貧しき者が哲学者になるのは不可能である。(『政治論』二巻 アリストテレスの言説)